水曜日のラントカルテ 第1話

 それはあっという間の出来事だった。

 一台の白塗りのセダンが目の前に迫ってきたかと思うと、ほとんど暴力的と言っていいくらいに、僕の視界は夕日の空に押しやられた。

 見慣れた道の、見慣れた空であった。

 強い衝撃により、僕の体が宙に舞い上がるのがわかった。

 あぁ、これはやばい。

 これは普通じゃない。

 宙に舞い上がりながら僕はそう思った。

 これは僕の、いや人間の耐久性をはるかに超えた衝撃だ。

 人間が日常で耐えうることのできる限界を軽く上回った打撃が全身を巡る。

 痛みとか、苦しみとかじゃない。

 そんなものはとっくに超えてきている。

 これは普通じゃない。

 まるでカナブンがトラックに立ち向かうようなものだ。

 どうあがいても無事じゃ済まないだろう。

 地面に叩き落とされ、腕を強く打ち、全身に電気が走る。

 壊れた人形のように体がぐったりとしてしまう。

 動けない。

 意識が遠のいていく。

 そういえば、『彼女』は無事に帰ることができただろうか。

 僕は薄れゆく意識のなかで『彼女』のことが頭から離れなかった。

 君はもっと幸せになるべきなんだ。

 君はいなくなってはいけないんだ。

 君は誰よりも美しい。

 僕はそう思う。

 これからは、その痛みを癒すために、その苦しみを忘れるために。

 生きて、いくべき。

 なんだよ。

 僕は意識はそこでブラックアウトした。

 

 

 

 

 

 

「先生、本当に僕はどこも異常はないのですか」

「あぁ、君はまったく健康そのもの。事故自体はけっこう悲惨なものだったが、当たり所がよかったのだろう。君は運がいい。まぁ、骨に多少、ヒビは入っているが」

「腕はたしかにちょっと痛みますが、僕は強く頭を打った気がするんです。もっとよく調べてください」

「調べたさ。大丈夫。とくに異常はなかったよ」

「なんとなく頭がボンヤリするんですがー」

「それは君、あれだ。きっと痛み止めを飲んだからだよ」

「なるほど。だからちょっとフワフワした感じがするんですね。きっと強い痛み止めなんでしょうね」

「いや、いちばん軽いやつだよ。生理痛とかによく効くやつだ」

 僕が通されたのは、どこにでもあるような病院の、どこにでもあるような医務室だった。

 医者と対面するように座り、そばのデスクの上にはデスクトップのパソコンが置いてある。

 患者をリラックスさせるためのものと思われる、観葉植物がどこか無関心を装いながら窓際に立っている。

 無関心を装っているが、けれども目の前で話す医者よりかはいくぶんまともなのではないかと思ってしまう。

「一週間後にまたおいで。腕を見てあげるから」

 僕がなんとなく納得がいかないのは、唐突に車に轢かれ、舞い上がり、そして地面に叩き落とされたにも関わらず、たった一日の検査入院だけですぐに退院を言い渡されたこともそうなのだが、なにより目の前の医者の日和見主義的の極地のような佇まいだった。

 普通、頭を強く打ったと患者が言ったら(現場で事故を見た人も明らかに頭を打ったと証言していた)、どこかに異常はないかを徹底的に調べてくれるものではないのか。

 というか、僕の「頭を打った」という不安にもう少し寄り添ってくれてもいいのではないか。

「大丈夫さ。君はまだ若いんだし、それに人間、そう簡単におかしくなったりしないよ。人間、地上3階くらいまでの落下衝撃ならなんとか耐えられる体を持っているんだ」

 その発言は医者としてどうなのだろうか。

 落下衝撃と言っているが、そんなもの当たり所次第だろうに。

 どこかのかわいい幼馴染を持った双子の野球少年の一方は、事故で当たり所が悪くて残念なことになったというのに。

「次に来るときには、保険証を持ってくるんだよ。あと、日本の医療制度への感謝もね」

なにかよくわからないことを言われたが、僕はとりあえずその病院を出た。

  

 

 病院からの帰り道。

僕はまるで天国から追い出された気分だった。

 聞いた話によると、僕はあの事故のあと救急車に乗せられ病院に連れて行かれたようだった。

 しかし対応した医者もびっくりするくらいに、バイタルが安定しており、出血もほとんどないとのことだ。

 ただ意識がないというだけで、身体のあちこちを調べるために繋がれたコードたちは、どれも正常な数値を導き出していた。

 あまりの処置のやりようの無さに、医者も「患者を間違えたんじゃないのか」と思ったくらいだった。

 医者が何度も「彼は本当に車に轢かれたのか?」とナースに聞き返していた。

 それくらい僕にはどこも異常は見当たらなかったという。

 僕が意識を取り戻したのも、事故にあったほんの3時間後だった。

 病院のベッドの上で目覚めた僕は、ぼんやりした頭で警察や車に乗っていた運転手の男性の話をぼんやり聞いていた。

 おそらく治療費や入院費、その他もろもろのことを話しているのだろうが、僕が何一つ負担することはない、という旨だけはなんとか理解できた。

 そして夜が明けてからも、警察やら保険屋やら運転手の男性やらが来て、慌ただしく一日が過ぎていき、事故から丸一日後に僕は「明日退院だよ」と医者から告げられたのであった。

 警察が親や学校に連絡をしてくれたおかげで、僕のスマホは友人やら学校やら親やらからひっきりなしに鳴り響き、「明日退院だよ」と言った医者に文句を言う暇もなかった。

 そして今、僕は天国から追い出された気分で病院からの帰り道を歩いている。

 せめてタクシー代くらいは出して欲しかったと思うくらいには回復したというわけだ。

 『今村晴市(いまむら はるいち)』は、僕の数少ない友人のひとりだった。

 趣味とか、相性とかが決して合うわけではないのに、高校に入った時には真っ先に友人になった。

 単に高校に入って最初の席がお互い近かったという理由もあるが、僕もあまり友人が多くいるわけでもなく、そして今村の方も決して友人が多い人間ではなかった。

 しかし本人はそのことを認めたがらない。

 むしろ僕の交友関係の狭さをディスってきたりする。

「そんな風に左腕だけ包帯していると、中二病みたいだぜ」

 今村は、交通事故に遭った友人に開口一番、そう言い放った。

 病院からの帰り道。僕らは高校の近くの公園で待ち合わせていた。

 その公園は僕の家の帰り道にあり、大きな木が真ん中に植えてある。何日か前からその木の枝にビニール傘が吊るされている。おそらく子供がふざけて傘を上空に投げてそのまま枝に引っかかったのだろう。

 その傘は雨が降っても、強い風の吹く日でもなかなか落ちてこなかった。それはとても不思議な光景だが、いつしか僕の中でその情景が当たり前のように感じるようになった。

 辺りは日が沈みかけて、長い影を作り、すっかり見慣れた夕方と見慣れた傘だった。

「大丈夫?くらい言えないの?」

 僕はいつもどおりの今村に若干抗議するように聞いた。

「大丈夫だから今日で退院できたんだろ?派手な事故だったと聞いていたが」

「僕はもう死んだと思ったよ」

 僕はそのへんのベンチに適当に腰を下ろした。

 公園には僕ら以外の誰もおらず、滑り台や鉄棒などの影が長く伸びており、どこか寂しい雰囲気に包まれていた。

「あの世から追い返されたんだろう。公務員や作業療法士と同じで、おそらく向こうは人手が十分足りているのかもしれない」

「それにしたって余剰人員くらいは確保すべきだよ」

 僕としては、まぁ命が助かっただけでも喜ぶべきなのだろうが、なんというか本当に事故のあの瞬間は完全に死んだと思った。

 たしかあの道路はいつもは車通りが少ない。

 見慣れた道路で「いますぐお金が必要。即カードローン」という怪しげな広告が電信柱に貼ってあり、そのすぐ下に「080」から始まるケータイ番号が書いてある。

 普段は静かで、その日も僕が通るまでは穏やかなどこにでもある道路だった。

 なのに。

「とりあえずこれはお祝いだ。本当は見舞いに行こうかと思ったけど、お前すぐ退院したしな」

 そう言って今村が渡したのは、ソーシャルゲームとかで使えるプリペイドカード1000円分だった。

 おそらく僕が入院しているときにケータイゲームで課金できるようにと思ったのだろう。

 今流行っているソーシャルゲームのイラストが描かれてある。

「くれるのかい?」

 彼にしては、わりと太っ腹な贈り物に僕は思わず聞き返した。

「もう買っちまったしな。使えよ」

 僕はありがたく受け取ることにした。

 何だかんだで気にかけてくれたんだな。

 僕は少し嬉しく思った。

「ところで今日は部活は?」

 僕は話題を変えた。

 今村はカメラが好きで、写真部に所属しており、いつも片手に街中を奔走していることが多かった。

 部の人間とはあまり良好な関係を築いておらず、ギスギスしているみたいなのだが、何だかんだで入学当初から一年以上も在籍している。

 しかし見ると、今日の今村はカメラを携えていなかった。

 カメラを持っていない夕方の彼は、なんとなく不自然な印象を僕に与える。

 僕が寂しい雰囲気を感じているのは、なにも夕日のせいだけではないのかもしれない。

「部活には行ったぞ」

 今村は当たり前のようにそう僕の質問に答えた。

「そうなんだ」

「そして辞めてきた」

 そして今村は何でもないかのようにまた答えた。

「辞めた?写真部をかい?」

「そうだぞ。まさか人間を辞めたとでも思ったのか」

「そこまでは言ってない」

 僕は呆れてそう返した。

 どこぞの吸血鬼じゃあるまいし。

「なんで辞めたのさ。カメラ好きだったじゃないか」

 僕がそう聞くと、今村はおもむろにカバンからスマホを取り出し、ビシっとそれを僕に突きつけた。

「カメラなんてもうダサい。今はもうスマホの時代だ」

 そう自慢げに彼は答えた。

 彼の、細長い長方形のスマホが夕日の微かな光で物悲しく輝いている。 

 見慣れたスマホだが、改めて見せられると、こんなスマホだったんだな、とまじまじと見てしまう。

「スマホのカメラなら、すぐに取り出せて、軽いし、編集も楽だし、アプリでいろんなグラディエーションも演出できる。ズームが必要なときは専用のレンズもある。もう一眼レフを使う必要なんてない」

 今村はきっぱりとそう言い切った。

 しかしそんな理由だけで、あんなに凝っていたカメラをやめてしまったのだろうか。

 僕はいぶかしげに思い、さらに突っ込んで聞いてみた。

「本当の理由はなんなのさ」

 僕はなんとなく、部活を辞めた理由が一眼レフの使い勝手だけではないような気がした。

「本当の理由か?そんなの決まってるだろ。部の連中がクソだからだよ。それ以外に理由なんてねぇよ」

 やっぱりか。

 突っ込んで聞いてみて正解だった。

 僕はかねてから今村から、部の連中と気が合わないことを愚痴られていた。

 僕自身も、部の人間関係とかめんどくさそうだから部活には入っていなかった。

 今村本人の人間性もあるのかもしれないが、これまでにも何度か部の人間と衝突を繰り返しており、なかでも部長とはとことんソリが合わない様子だった。

「なんで写真撮るのにいちいち部長に報告、連絡、相談しなきゃなんないんだ。それに毎週火曜日のまるで意味を成さないミーティング。当番制の掃除。2年になったら今度は、1年の面倒をマンツーマンで担当しろとか言い出す。めんどくせーよ。なんで俺がそんなことしなきゃなんないんだよ」

 写真部は、上下関係が厳しいらしく、とくに上級生への達し事項はマメに行わなければならない。それでいて、少しでも勝手な行動を行うと上級生からの厳しい叱咤激励が行われるようであった。

 おそらく部の長年の風習みたいなものなのだろう。

 そういったものが代々受け継がれてきたという。

 なんだか会社みたいだ。

「この間だって俺が中央駅まで行って『都会に住む猫』をテーマに撮ろうとしたら『ちゃんと部長の許可を取れ。じゃなければ辞めろ』って言われたんだわ。なんでそんなことしなきゃなんないんだよ。アホかよ」

  僕からすると、彼が今まで部を続けていたのが不思議なくらいだった。

 彼は高校入学当初から写真部に入り、1年以上は所属している。

 その当初から愚痴を聞かされていたが、何だかんだでちゃんと部活には通っていた。

 それがなんと、僕が交通事故にあった直後に辞めたなんて。

 僕の事故がなにか彼にきっかけを与えたのだろうか。

「それにだ。訳のわからない話し合いが多すぎる。『今月は○○をテーマに写真を撮ろう』とか『最後に部室を使った人は鍵をかけましょう』とか、うるせぇんだよ。知らねぇよ。もう勝手にするわって思って辞めてきたんだわ。まぁ辞めるって言ったのは1週間前でさ。写真部に入る前に辞めるときには、本当は3ヶ月前に申請するようにって言われてたんだけど、俺はなんか特例で1週間でいいみたいだったわ」

 なるほど。

 写真部も早く彼を追い出したかったのかもしれないな。

 しかし、3ヶ月前に辞める申請をしなきゃならないなんて。

 ほんと、なんだか会社みたいだ。

「じゃあ、1週間前に辞めることは決定してたわけなんだね」

「そういうことだ。だから今日が最後の写真部だったってわけだ」

 今村は得意げにそう言った。 

 まるでこの1週間耐え切った、と誇らしく思わんばかりに。

 僕は僕で、そんなこと全然聞いていなかった。

 1週間前にも、僕らはふつうに喋ったり、カフェに行ったりしていたけれども、そんな話はまったく出ていなかった。

 こんなにお喋りなくせに、肝心なことは全然言わないところが今村にはあった。

「俺、あんなにめちゃくちゃやってたのに、最終日にはなんか後輩が花束持ってきてくれたぜ」

「そういうところちゃんとしているんだね、写真部」

「まぁ、叩き潰してもよかったんだけど、とりあえず受け取ったわ」

「そういうのはちゃんと受け取らないとね」

 今村は破天荒なイメージだったけど、そういうところはちゃんとするんだな。

 彼がもらった花束をその場で窓の外へ投げつけてもおかしくない性格なのを知っているので、僕は少し安心した。

「ほんでさっきお前が事故にあった場所に捧げてきたぞ。気が利くだろ、俺」

「いや、なんでそんな縁起悪いことするんだよ。ってか、ちゃんと持って帰りなよ。」

「いや、邪魔だったし」

 やっぱり彼は今村だった。

「ところで今日も『米盛旬果(よねもり しゅんか)』がやらかしたぞ」

 今村は突然、そう切り出した。

 辺りはすっかり日が落ち、街灯の明かりが公園を照らしていた。

「彼女は今日は何をしたんだい」

 『米盛旬果』。

 学校一の変わり者で、けれども校内一の美少女だ。

 端正な容姿にも関わらず、友達を作ろうとせず、いつも独りで行動している。

 それでいて何かしらの奇行が目立ち、クラスでも、いや学校中でも浮いた存在になっている。

「学校中の時計が、5分ズレているのは知っているだろ?」

「うん」

 よその高校ではどうか知らないが、うちの高校は5分前行動を心がけるために校内の時計はわざと5分早く進んでいる。

 当たり前だが、そんなことをやっても遅刻する人間は遅刻する。

 時間を守らない人間はいつまでたっても時間を守らない。

 そのため、僕と今村が勝手に作った『校内の意味のないルール6選』に選ばれている。

「おそらく米盛旬果はかねてからそれが気に入らなかったんだろうな。今日の朝、早く登校してきて学校中の時計を元に戻していたみたいだ。用務員室の時計まで5分早く進んでいたらしく、それも元に戻した」

「校内中の時計を?」

「そうだ」

 それを聞いて僕は呆れてしまった。

 学校中の時計なんて、いったいいくつあると思っているんだろう。

 2030では済まない数になるだろうに。

「まぁ、早朝出勤した教師に見つかって止められたみたいだけどな」

 今村は半ば冷笑したようにその出来事を話した。

 僕はそれを聞いてやれやれという気持ちになったが、驚きはしなかった。

 おそらく校内の人間なら僕と同じような感想を抱くだろう。

 以前にも『米盛旬果』は、学校の敷地内に咲き誇っているマリーゴールドの花壇の一部を『カロライナジャスミン』に植え替えてしまったこともあった。

 その前にも『暑い』と言って自前の扇風機と延長コードを抱えて登校してきたり、冬の寒い時期には電気毛布とこれまた延長コードを持参してクラスを訪れたこともあった。

 おかげで僕らのクラスだけ(僕は去年も今年も『米盛旬果』と同じクラスだ)季節の変わり目には『必要のないものは持ってこないように。(延長コード等)』という達し事項がクラスだよりに追加された。 

 担任もいろいろ大変だ。

「顔はすごくタイプなんだけどな、俺」

 今村は、『米盛旬果』に関しての最新情報をくれるたびに、最後はいつもそう締めくくった。

「うん。すごく可愛いんだけどね」

 そして僕もそう返す。

 これが、僕らがいつも『米盛旬果』の話題をするときのお決まりのようなものであった。

「けどまぁ、これからは『米盛旬果』の話題も減るだろうな」

 今村はおもむろにそう口にした。

「どうして?」

「いやな、今までは部活にいただろ?いやでも『米盛旬果』の話題が入ってきたわけだ。なんたって、あそこは統一を乱すことを嫌う文化だ。『米盛旬果』は、まさにあいつらにとっては統一を乱す存在であるわけだ。だからこそ、彼女の情報はいの一番で入ってくる」

「なるほど」

 写真部といっても、校内新聞を作ったり、学校のパンフレットも一部担当していたりする。あの場所は絶えず情報が集まるところでもあった。

「けれども辞めちまったわけだからな。これまでより『米盛旬果』の話題は少なくなるだろうな」

「ふむ」

 僕はそれに関して言えばとくになにも感想を抱かなかった。 

 これは僕の予想だが、おそらく今村は『米盛旬果』の話題が減ることを僕が残念がると思っていたのだろう。

 僕は高校入学当初、彼女と『ひと悶着』あったものだから、彼もそのへんの情報には敏感になっているきらいがあった。

 ところが、僕があまり驚かない様子を見て、やや肩透かしをくらっている様子だ。

 変わった性格だが、今村は今村で情報を集めたり、ミーハーな話題で盛り上がったりするのが好きなのである。

 彼は将来的に情報を扱う職業に就きたいらしい。

 だからこそ、おそらく写真部に今まですがりついていたのだろう。

 しかし、写真部を辞めた今、彼は学校の、かなりのローカルな情報源とはいえ、そういったソースがなくなることには関してちょっとした追悼の気持ちがあるのかもしれない。

「まぁ、けどだ。これからも『米盛旬果』のことで何かあったら教えるぜ」

 僕としてはそこまで熱心に彼女の情報を知りたいわけではなかったが、彼が喜々として話してくれる内容はそれなりに面白かったので黙って聞いていた。

「俺としては『西里津花(にし りつか)』の方が、素朴ないい子そうで好みだけどな」

 あと、今村は勝手に僕が『米盛旬果』のことが気になっていると思っているらしい。

 僕としてはそんなつもりはなく、ただ苦手というだけの印象でしかない。

「たしかに『西里津花』の方がお嫁さんにしたいタイプだよね」

 『西里津花』。

 彼女とは小学校から一緒で、低学年のころ、同じクラスになったことがある。

 幼なじみといえば聞こえはいいが、現実的な話をすると、小学校、中学校、高校くらまで一緒という生徒は、この高校にはけっこういる。

 僕らの高校は、一応進学校であるが、そこまで敷居の高くない、いわゆる『勉強一筋』の人間が行くような学校ではない。

 中の上クラスの高校で『そこまで勉強は熱心にしたくないけど、ある程度大学進学への実績がある高校』に行きたい人間が集うタイプの高校である。

 地元の人間なら、率先して入りたがる高校のひとつということになる。

 結果、僕の出身中学の人間はこの高校にはけっこういる。ちなみの僕も『そこまで勉強を熱心にしたくないけど、ある程度大学進学への実績がある高校』を熱望した人間のひとりである。

「美人という感じじゃないけど、いい子そうだし、話しやすいよね」

「だろ?」

 僕らはそうやって、どこの男子高校生でも話しているような女子の話題に花を咲かせていた。

「そんなわけで、これで晴れて自由の身だ」

 あたりはすっかり夜になっていた。

 けっこう話し込んでしまっていたようで、公園の外灯には複数のわけのわからない虫たちが群がっている。

「なら、これからはひとりで写真撮るのかい?」

「そう思ったんだが、やはりひとりは寂しい」

 今村は恥ずかしげもなく、はっきりとそう言った。

「なんだよ、それ」

 それを聞いて僕は呆れてしまった。

 彼はいったい何がしたいんだろう。

 せっかくひとりで自由に写真撮って回れるんだから、思う存分撮ればいいのに。

「なわけでだ。俺も部活を作ることにしたぞ」

 まるで当たり前のように今村はそう言い切った。

「やはり一人より誰かと活動してた方がいい。その方がネットワークというか、見識というか、そういうのが広がるはずだ」

「だったら、写真部に戻ればいいじゃないか」

 いまさらながら思うが、彼の言動はいつも直情的だ。

 感情に振り回されやすいところがあり、そんな彼の姿をみると僕はいつも自分の帯がしっかり締まっているかを確認させられる。

 いわゆる反面教師のようなものだ。

「辞めた部にもう一回入るような恥さらしなことできるかよ。裸でコンビニ入った方がまだマシだわ」

「そっちの方が勇気いるでしょ」

 今村は部に戻る気はさらさらないようだった。

 だったらこれまでのよう我慢して部を続けていれば良かったのにと思ってしまうが、かねてから彼の愚痴を聞いていると、まぁ彼はあまり団体行動は向かない人間だということがしみじみとわかる。

 集団行動が苦手なくせに、そのくせ単独行動はしたくない。

 今村のそういう矛盾した言動に、僕はあまり違和感を覚えない。

 普段からこんなやつだし。

「じゃあ、これから部員を探すってこと?」

 彼が部を作ると決意したことを「とりあえず」飲み込み、僕は、彼の次の行動を聞いてみた。

「まぁ、ひとりはもう決まっているんだわ」

「そうなの?」

 何だかんだで、ちゃんと次を見据えて行動しているんだ。

 僕は彼の交友関係が決して広くないことを知っていただけに、ちょっと感心してしまった。

「それはすごいじゃないか」

「そうだろ」

 今村は得意げにそう言って続けた。

「まぁそいつ、まだ病み上がりだし、写真とかにあまり詳しくないんだけどな。けどスマホで写真撮るだけだから別にきつい運動はしなくていい」

「スマホはみんな持っているしね。よかったじゃないか」

 僕は心のそこから彼の部活の立ち上げをお祝いした。

「だからまぁ、これからよろしく頼むわな」

 そういって今村は握手を求めてきた。

 僕は差し出された手をしっかり握った。

「うん、よろしく。って、何を?」

 彼の差し出された手を握ったはいいものの、なぜ僕に「よろしく」なのだろうか。

 僕は関係ないはずなのだが。

「何をって。部員第一号はお前だよ、野上」

 唐突に僕の名前が出てきたので、僕は一瞬何のことだかわからなかった。

「まずは念願の中央駅周辺に住む『路地裏の猫』シリーズを撮るぞ。俺、猫好きなんだよ」

「ちょ、ちょっと待って!部員第一号ってどういうこと?」

「お前も俺の部活に入るんだよ。お前今『よろしく』って言っただろ」

「いや、入らないよ。何言ってんの?」

 彼はなにか勘違いをしているようだ。

 僕は部活とか、そういうのにはあまり入りたくない。

ひとりでのんびり家で『ラディッシュ』とか育てるのが好きなのだ。

 気ままに本屋に寄ったり、気ままにカフェでソシャゲをしたりするのが僕の学生ライフとして定着している。

 いまさら部活というものに縛られたくはない。

「お前は俺の『スマホ写真部』に入ることがもう決定しているんだ」

「勝手に決定するなよ。僕が自由気ままに放課後ライフを楽しみたいのは知ってるはずだろ」

「大丈夫だ。うちはのんびりとしたゆるーい部でいくから」

「頼むから他を探してよー。部活なんてめんどくさいよ」

「お前の事故現場に花束捧げただろー?」

「いや、だから死んでないんだってば」

「そんなわけだから、悪いけど僕は『スマホ写真部』には入らないからね」

「なんでそんなに嫌がるかね。別に籍を置くだけでもいいだろうに」

 まぁ、普段からわりと一緒にいるから、彼の『スマホ写真部』に入ったところでいつもの日常とあまり代わり映えしないのだろうけど。

 それでも僕は、なんというか自分の時間を大事にしたいところがある。

 部活に入ってしまうと、それが崩れてしまうような気がして、なんとなく乗り気になれない。

「別に部を作らなくたっていいじゃないか。ひとりで気ままにスマホで写真撮ればさ」

「いや、それだと卒業アルバムの部活紹介の欄に自分が映らなくなる。卒業アルバムには少しでも自分が載っていた方がいいだろう?」

「だったら、写真部に戻ればいいじゃないか」

「写真部に戻るくらいなら、裸でイオンモール歩いた方がマシだわ」

「なんでそんなに裸にこだわるんだよ。ってかそっちの方が勇気いるでしょ」

 今村は頑として写真部に戻る気はないようだ。

「だからといって、僕は『スマホ写真部』には入らないよ。悪いけど、誰か他を探してくれよ」

 なんだかだんだん、頭が痛くなってきた。

 僕が具合が悪そうにしていると、今村は「今日はこのくらいにしておこう」といって、ベンチの横に置いてあったカバンを取った。

「まぁ、考えておいてくれ」

 そういって、彼は「また明日な」と言って帰っていった。

 なんか、いろいろあって今日は疲れた。

 僕も今日は帰ることにした。

「あんた、大丈夫なのー?」

 母親は電話口で僕にそう聞いた。

 事故に遭ってから警察が家族へ連絡したようだった。

 家に帰りついてからその夜、母は僕に連絡を寄越した。

「大した怪我じゃないよ。まぁ、腕はちょっと包帯巻いているけど」

「なんか、深刻そうじゃないわね。とりあえず安心したわ」

 母は安堵したような声でそう息子に言った。

「学校はしばらく休むんでしょ?」

「いや、ふつうに行くよ」

 医者には「しばらく休んでもいいかもしれない」という、なんだか曖昧なことを言われたが、もうあと一ヶ月もしないうちに試験があるし、勉強がわからなくなるのは嫌だったのでとりあえず学校には行くことにした。

「え、ちょっと大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。それより、そっちはどう?父さんも元気?」

 この話題をいつまでしててもしょうがないし、僕はそれとなく話を変えることにした。

「お父さんは元気よ。工場の仕事、案外向いているみたい」

 父は前の会社で大規模なリストラに遭い、僕が高校に上がった直後に職を失った。

 営業職で、会社ではそこそこ重要なポジションにいた。

 しかし、恩ある上司の頼みを断りきれず、希望退職した。

 父は住宅ローンを抱えておらず賃貸マンションに留まり、車のローンもすでに終わっていたし、子供は僕だけだったので、早期退職の白羽の矢が立ったという。

 母はその知らせを聞いてとくに何か文句を言うわけでもなく「あなたがそう決めたのならそれに従うわ」とクールに受け止めた。

 僕の父は、いわゆる厳格な父というものとは程遠い、物静かでキャンプをこよなく愛する人間であった。

 母が時々ヒステリックになったり、急に不機嫌になったり、黙り込んだりする様子を、いつも隣で我慢強く付き合っていた。

 僕と父は、直接のコミュニケーションは少ないのだが、母が家庭内で不安定になったりするときには、二人で同じ気持ちを共有している意識が芽生え、同世代の人間よりかは、僕と父の仲は悪くはないといえるかもしれない。 

「派遣の出稼ぎはけっこう大変だって聞いてたけど」

 僕は、どこか気が弱そうなところがある父を心配していた。

「お父さん、昔から体だけは丈夫だからねー。あんたがまだ生まれる前にも、海で泳いでいたらモーターボートにおもいっきり衝突したことがあったけど、そのあともふつうに泳いでいたからね。車に轢かれたのにふつうにこうして喋ってるあんたも、父さんに似たんでしょう」

 衝撃に強い遺伝というのはたしかにけっこうありがたいかもしれないが、強い衝撃を受けても身体が何の反応もないというのもけっこう不安である。

 できたら何かしらの身体の反応があればいいものの、本当にどこも痛くない。

 返って不気味だ。

 というか、遺伝というだけで解決できるものなのか。

「とりあえず、明日は学校休みなさいよ。外出は避けて、家で寝ておきなさい」

 それもなかなか魅力的な提案だが、一日中寝ているというのもそれはそれで退屈しそうだ。

「なるべくそうするよ」

 僕は曖昧に答えてから「そろそろ電話切るよ。明日までの提出物があるから」と母に告げたが「あんた明日学校いかないんでしょ」とツッコまれた。

 そういえばそうだった。

 なかなか母親らしいことをいう。

「これでもいちおう、あなたの母親ですから」 

 母はもう一度、念を押すように「明日は学校休みなさいよ」と言って電話を切った。

 その夜はなんとも不思議なことが起きた。

 なんとなく頭がぼんやりしていて、眠くはなかったがベッドに横になっていた。

 そしてどことなく、このマンションの一室に誰もいないことを意識してしまった。

 そうか、この部屋には今僕しかいないのか。

 母が父を追いかけていってこの家を出たのが半年前。僕がまだ高校1年のころだ。

 僕に一通りの家事を教え、荷物をまとめて父を追いかけていった母親。

 最初の何週間かはけっこう寂しくもあり、今村によく来てもらっていた。

 けれども今は、ひとりでのんびりできるこの空間がどことなく穏やかで好きだった。

 夕食を作ったり、皿を洗ったり、部屋の掃除をしたり。

 僕はそういう家事全般をとくに苦痛とは思わない性格なのがわかった。

 自分の週間に従って、自分のペースで、好きな配分を決めて作業をすることは僕にとって生活の充実度を増すことに繋がっているのである。

 それが急に、今はひとりであることがとても寂しく感じている。

 なぜだろう。事故のせいだろうか。

 激しく車にぶつかり、舞い上がり、僕は地面に叩き落とされた。

 その弊害が今やってきたというのだろうか。

 事故の後遺症が、寂しさの増大というのもおかしな話だが。

 そう考えているうちに、僕は眠っていた。

 そして妙な夢を見た。

 その夢にはあの『米盛旬果』が出てきた。

 彼女は僕をじっと見つめていた。

 学生服を来ており、学校指定のカバンを肩に掛け、いつもの不機嫌そうな顔で僕を見つめている。見つめている。

 彼女の背後には夕日が沈む公園があった。

 おそらくさっき今村と一緒にいたあの公園だ。

 真ん中に大きな木が植えてあり、上空の枝にいつもの柄の白いビニール傘が引っかかっている。

 人気はなく、寂しげな公園。

 僕は彼女の目をじっと見つめてしまう。

 そんなに見てしまっては、彼女に変に思われてしまうかもしれない。

 そう思うのだが、なぜか彼女から目が離せない。

 なぜ彼女は僕をそんなに見つめるのだろうか。

 そして僕はどうして彼女をそんなにも見つめてしまうのだろうか。

「おねがい」

 彼女の声がそう聞こえた。

 僕は聞き返えそうとした。

 けれどもなぜか言葉は出てこない。

「おねがい」

 彼女はもう一度僕にそう言った。

 唇を微かに動かしながら、米盛旬果は僕にそう言ったようだった。

「おねがい」

 なにが『おねがい』なんだろう。

 僕は訳がわからず、ぼんやりしていた。

 するともう一度。

 今度ははっきりと彼女の声が聞こえた。

「おねがい。今日のことは、誰にも内緒。あなたと、わたしだけの秘密」

 僕にははっきりとそう聞こえた。

 言葉ははっきり聞こえた。けれど意味はよくわからない。

 誰にも内緒。僕らだけの秘密。

 なんのことだろう。

 なにが秘密なんだろう。

 僕は彼女と、なんの話をしているのだろう。

 わからない。 

 わからないよ。

 お願いだから、最初から頼むよ。

 話が見えない。

 なにが『内緒』で、なにが『秘密』なんだ。

 そんな重要なことを、どうして僕に言うんだ。

 米盛旬果。いったい君はなんなんだよ。

 僕はゆっくり彼女へと手を伸ばした。

 彼女に触れようとした。

 そして僕の手が触れようとした瞬間、

『触らないで!!』

 

 僕はその声で目が覚めた。

 そこは自分のベッドの上だった。

 見慣れた天井と、聞き慣れた静寂がそこにはあった。

 僕は止めていたであろう呼吸を再始動したせいで、唾が気管に入りむせ込んでしまった。

 自分の乾いた咳が部屋中に響き渡る。

 激しく呼吸をしたいのに、むせ込んでしまってうまくいかない。

 とりあえず息を吸い込む。

 ゆっくりと呼吸を整えた。

 頭はスッキリしているが、胸のあたりがモヤモヤする。

 なんだか変な気分だ。

 僕はとりあえずスマホを手に取り、通知が来ていないかを確認した。

 『本日ログインするとガチャ一回無料』や『明日まで使えるクーポン、会員様特典』や今村からの『部活に入りたければいつでも待ってるぞ』という通知以外はこれといったとくに代わり映えのしないものばかりだった。

 僕は、なにかゲームアプリを開く気にもなれず、そのままスマホを閉じることにした。

 そう、そのままスマホを閉じてもよかった。

 けれども僕はそうしなかった。

 僕はなにか引っかかるものを感じて、そのままスマホを開いたままにした。

 『なにか』忘れているような。

 僕は強烈にその引っかかる『なにか』感覚を前に動けなかった。

 『なにか』重要なことを忘れている。

 これはそんな感覚だった。

 けれどもそれがなんなのかまるで思い出せなかった。

 僕はしばらくスマホを開いたまま、動けないでいた。

 やがて、スマホがスリープモードに入る前兆で画面が一段階暗くなり、慌てて僕はタップする。

 何でもいいからアプリを開いてみようと思い、最初はメモアプリを開いた。

 大事なことはいつもここにメモしている。

『最新ラディッシュの育て方vol.34 728日発売予定』

『サーキュレータ衣類除湿乾燥機 ¥19.800

『母帰省 81015日』

『マルーン5 Move like Jagger 神曲』

『マルーン5 this loveよりかはNot Coming Homeだと思ったけどやっぱりthis loveかな』

『マルーン5

 なんだかマルーン5のことばかりだった。

 最近ハマって聴いているのだが、どれもとりとめのない内容ばかりだった。

 それはただのとりとめのない内容である。

 僕はメモアプリを閉じた。

 そしてなんとなく写真アプリを開いた。

 普段から大した写真を撮っていないので、同世代の人間に比べて枚数は少ないと思う。

 今村に付き合せられて行ったカフェの画像やノートを写させて欲しいといった今村に写メして送ったノートの画像がそこにはいくつかあった。

 しかし僕はその中に明らかに異質な存在にすぐに気がついた。

 撮った覚えのない画像がそこにはあった。事故に遭った昨日の日付が記されてある。

 僕はタップしてそれを開いてみた。

 その画像を見て、僕は一瞬、呼吸が止まった。

 そこには、あの夢で出てきた『米盛旬果』がいた。

 背景はおそらく、あの公園であることは間違いなく、夕日のバックに米盛の整った顔が全体的に映されている。

 夢で出てきた、あの僕を見つめる不機嫌な眼差しがそのままあった。

 どういうことだ。

 なぜ彼女の写真が僕のスマホに。

 これはいつ撮ったのだろうか。 

 そもそも僕は彼女と喋ったことなんて、ほとんどない 。

 いったいこれは、なんなのだろうか。 

一枚の写真データを前に、僕は動けなくなってしまった。

 そしてその夜は、あまりよく眠れなかった。

 朝になって、僕は今日は学校を休むことを決めた。

 学校へ連絡すると、事情を知っていた担任が「さすがに今日は休んだほうがいい」と言ってくれたので、その言葉に甘えることにした。さすがに休んだ方がいい、というのもなかなかの言葉である。一応、車に轢かれているのだから、何ならしばらく休んだほうがいいの、という言葉があってもいいと思うのだが。

 昨夜はあまりよく眠れなかったが、僕の頭はなぜかスッキリしていた。

 人は自分が思っているよりも眠れているのかもしれない。

 複雑に思っているだけで、案外その中身は単純なのかもしれない。

 僕の身体は少なくとも、あまり複雑にはできていないのだろう。

 僕はとりあえず台所へ向かった。

 冷蔵庫には食材は最低限のものしかなかった。そろそろ買い物に行かなければ。

 いつもは簡単に済ませてしまう朝ごはんだが、今日はインスタントの味噌とチンした冷凍ご飯を用意し、さらにそこにベーコンエッグを作った。

 冷蔵庫から納豆も出して、さらに簡単にキュウリも切って皿に乗せてみた。

 朝からこんなにたくさん食えるものか、と自分でも思ったが、できた品々を前に箸を手に取ると、僕はあっというまにすべて平らげてしまった。

 そして食べ終わると、人間の体に生まれた故の逃れられない宿命という名の世代交代、あるいは便意を催し、約20分もトイレにこもってしまった。

 トイレから出ると僕の身体は、完全に次世代の身体になっていた。

 古い物は捨てられ、新しい物の時代の幕開け。

 昨日、あんな事故に遭ったのに、正直認めたくはなかったが、こればかりは認めるしかない。

 今日の僕は、すこぶる体調がいい。

 理由はさっぱりわからないが、とても気分がすっきりしている。

 今ならどんな速い車が迫ってきても、避け切れるのではないかと思ってしまう。

 まぁ、避けきれなかったからこうしているわけだが。

 洗い物を終え、しばらく部屋の中をウロウロしていると急に掃除がしたくなった。

テレビの横に置いてある掃除機を引っ張り出し、細いノズルとワイドなノズルを使い分けながら、部屋の隅々まで掃除をした。

 トイレの中まで掃除機をかけた。

 すると今度は便器の黄ばみが気になりはじめ、掃除機をかけ終えるとゴム手袋をはめ、ブラシとトイレ用洗剤を手にトイレの中の掃除を始めた。

 もちろんBGMはマルーン5だ。

 間で声優アイドルの曲が流れたが、概ねほとんどはマルーン5が流れた。

 スマホの着信音が鳴り、今村から「元気なんだから学校に来いよ」というメッセージが来たが、無視した。

 今日の僕はのんびり過ごすのだ。

 ゆっくり掃除をして、のんびり音楽を聴いて、そしてこれから貯めていた洗濯物を洗濯して、効率よく乾燥できる配列を考えながら部屋干しをするのだ。

 外に干してもいいが、今日は少し風が強い。

 僕の住んでいる鹿児島は灰が降るので、風が強い日はむやみに洗濯物を外に干さない方がいい。部屋干しだって、上手にやれば臭いも残らずきっちり乾燥させることができる。今は古い除湿機を使っているが、そのうちサーキュレーター機能付きの室内除湿乾燥機の購入を母親に打診してみるつもりだ。

 それがあればもっと部屋干しが楽しくなる。

 それまでは古い除湿機と扇風機を使って、部屋の中の風の流れをコントロールしながら洗濯物を乾燥させていくことにしよう。

僕ほど緻密な計算をして部屋干しをする人間もそうそういないだろう。

部屋の構造と、風の流れを計算する。そして洗濯物にまんべんなく風が行き渡るように並べる。僕はこういうことを考えるのが好きなのだ。

 しかし僕が洗濯場へ行くと、洗濯物は案外溜まっていなかった。

 そういえば一昨日に洗濯したばかりだった。

 男ひとり分では、そこまで洗濯物は溜まらないし、こまめに洗濯すると水道代が上がってしまう。そうなるとサーキュレーター付き除湿乾燥機の購入への道のりが遠くなってしまう。

 なるべく節約せねば。

 僕は洗濯を諦めると、急にぽっかりとやることがなくなってしまった。

 ソシャゲをしてもいいのだが、なんとなくその気にならない。なんかそれで一日が終わりそうな気がしてもったいと思った。

 僕はスマホをとりあえず開いた。

 昨日の画像をもう一度確認するためだった。

 昨日の米盛旬果の画像。

 彼女の不機嫌な表情は、やはりまだそこにあった。

 いったいこれはいつ撮ったのだろうか。

 そもそも僕は、米盛旬果とはほとんど喋ったこともない。

 1年のころから同じクラスだが、話をする機会なんて一度もなかった。

 いや。

 そういえば、と思った。

僕は彼女と一度だけ喋ったことがある。

 いや、あれは喋ったとはとても言えない。

 正確には、拒否された、と言えるだろう。

 あれはたしか高校に入って最初の授業の時だ。

 よく覚えている。

 あのとき、僕の少し後ろの席に座っていたのが『米盛旬果』だった。

 とびきり美少女がいるな、と意識はしていた。

 まっすぐ伸びた黒髪。やや不機嫌そうな目元に、まっすぐ伸びた背筋。絵に描いたような小顔には顔のパーツが端正に並んでいた。

 すぐに目がそっちに向いてしまうくらい、彼女は目立っていた。

 もちろん僕から話しかけられるはずがあろうもない。

 僕は初対面があまり得意ではないのだ。

 しかし、そんな彼女と話せるチャンスがやってきた。

 それは高校生活初日の、最初のホームルームの時間だった。

 たしか担任が、将来どんな職業に就きたいか聞き、それをアンケート用紙に記入するように言った。

 前から配られてくるアンケート用紙を僕は後ろの席の米盛に渡した。ただ渡すだけなのに、なぜか緊張したのを覚えている。

 アンケート用紙にシャーペンを走らせる音が教室中に響き渡る。

 高校初日の独特の緊張感に教室が包まれる中、誰かが落とした消しゴムが僕の席の近くまで転がってきたのだ。

 僕が転がってきた消しゴムを発見し、後ろを振り返ると米盛旬果と目があった。

 彼女の「しまった」という表情がとても可愛かったのを覚えている。

 もちろん、僕はそれを拾ってあげることした。

 この機会に僕は彼女と話す機会を得られるかもしれない。

 うまくいけば仲良くなれるかもしれない。

 もっとうまくいけば、もしかしたら。

 そんな妄想が一瞬よぎらなかった、といえば嘘になるだろう。

 まぁ、そこまではなくても、彼女と話すことができる良いきっかけになるかもしれない、くらいのことは考えていた。それは事実だ。

 ある程度打算はあったものの、僕は彼女の落ちた消しゴムを拾ってあげようと思った。

 僕が椅子から立ち上がり、消しゴムに手を伸ばそうとしたそのとき、

「触らないでっ!」

 という声が響き渡った。

 僕はびっくりして手が止まった。

 その声はどうやら消しゴムの持ち主である『米盛旬果』だった。

 振り返ると、彼女は僕の目をまっすぐ見つめていた。その表情はどちらかといえば悲痛な叫びをするときの顔だった。

 まるで僕が、彼女の生まれたころから飼っている猫を僕が電子レンジに入れようとしてそれを必死になって止めている、といった顔だった。もちろん僕はそんなことしない。電子レンジの説明書に「猫を入れないでください」と書いてなくても、僕はそんなことをしない。 

 それくらい、彼女は僕に消しゴムを触って欲しくないという表情をしていたのだ。

 そりゃ、もちろん僕はショックだった。

 こっちは親切心で消しゴムを取ってあげようとしただけなのだ。

 たしかにほんの少し下心があったことは認めよう。

 下心の、その下にも心があったことは認めよう。

 それは認めよう。

 けれど、だからといって教室中に響き渡る声で拒否することはないじゃないか。

 それだとなんだか僕が悪者みたいじゃないか。

 猫を電子レンジに入れるようなマネを僕はぜったいにしないというのに。

 まぁ、猫のことはいいだろう。

 それからというもの。

 僕は彼女への苦手意識が芽生えてしまった。

 廊下や教室ですれ違いそうになると、なんとなく避けてしまうようになった。

 彼女は彼女で、その一見が学校中のちょっとしたニュースになり、校内では浮いた存在になってしまっている。

 いつもひとりでいるし、変わった行動が多く見られ、学園内のちょっとした名物と化してしまっていた。

 僕は僕で、それがきっかけで今村に話しかけられ、それ以来よくツルむようになった。

 良く言えばその一件で、あまり友人を作るのが苦手な僕に友人ができたという捉え方もできる。 

 悪く言えば、それでますます僕が人間関係にデリケートになってしまったとも言えるだろう。

 『米盛旬果』。

顔とかはとても好きなんだけれども

 スっと通った鼻筋。上品なお人形のように整えられた大きすぎない二つの目。薄く儚い唇。

 顔はとても好きなんだけれども。

 

 ラディッシュの水やり終えると、僕はやることがなくなってしまい、悠久にも思える時間に放り出された。

 ソファーに座って、何をするでもなくぼーっとしていると、やはり彼女のことを考えてしまう。

 いったいなぜ僕のスマホに彼女の画像があるのだろうか。

 画像は事故に遭った一昨日の日付になっている。

 つまり僕は事故に遭う直前に、米盛旬果の写真を撮ったことになる。

 もしくは彼女が僕のスマホを使って自撮りをした、ということになる。

 あれ、待てよ。

 僕はふと、わからなくなってしまった。

 そういえば一昨日の事故に遭う前は、僕はどこにいたんだっけ。

 一昨日といえば、火曜日。

 いつもの僕だったら、火曜日は買い物にいくことになっている。

 近くの大衆デパートで買い物をして、家に帰る日になっている。火曜日は特売日なのだ。

 しかし火曜日に買い物に行った記憶がない。

 そもそも家に帰った記憶もない。 

 それもそうだ。

 僕は事故に遭ったときには制服を着ていて、学校指定のカバンを持っていたのだ。

 だからつまりその日は家に帰っていないことになる。

 僕は買い物に出かけるときには家で一旦着替えるし、もちろん学生カバンは持っていかない。大きめの布のカバンをエコバッグとしていつも持っていく。

 なのに車に轢かれたときには、僕はなぜか制服を着ていて、しかも学生カバンを持っていた。

 ということはその日は僕は家に帰らなかったということになる。

 買い物にも行ってない。

 そういえばさっき朝ごはんを作ったときも、そろそろ買い物に行かないとな、と思った。

 なら買い物に行ってないとなると、僕は家に帰る前に事故に遭ったということになる。

 でも、待てよ。

 僕は何かが引っかかった。

 そうだ。

 車にぶつかった瞬間を思い出す。

 僕が車に接触したとき、空に舞い上がったとき。

 「いますぐお金が必要。即カードローン」の電信柱の広告が、赤く染まっていた。

 そうだ。

 僕が事故にあったのは、夕方だ。それも日が沈む直前といった時間だ。

 だとしたら、おかしい。

 なぜなら僕は学校が終わって寄り道はあまりしないからだ。

 今村に誘われなければ、まっすぐ家に帰る。

 学校から家までは自転車で通える距離にある。学校で忘れ物をしたときは、昼休みとかにコッソリときに行けるくらい近い距離だ。

 だとしたら僕は、日が暮れるまでどこで何をしていたのだろうか。

 どうしてだろう。思い出せない。

 今村に誘われた?

 いや、たしか火曜日は今村の部活は定期ミーティングの日だったはずだ。

 その日はまだ今村は部活を辞めていない。あんだけボロクソいいながらも、彼はミーティングをサボったりはぜったいしなかった。

 だから事故があった日は、僕は今村とは会っていない。

 今日が木曜日で、昨日が当たり前だが水曜日だ。

 水曜日、つまり昨日は僕は一日病院にいた。

 そしてその前の日が火曜日。僕が事故に遭った日で、今村がミーティングの日だ。

 ミーティングのときには今村とは会えない。彼はああ見えて、言われたことには素直に従う性格なのだ。それが嫌になって辞めてしまったのだが。

 では、僕はその日、遅くまでどこにいたのだろうか。

 あれ、おかしいな。

 どうしても思い出せない。

 火曜日の放課後の記憶がどうしても思い出せない。

 記憶力にはわりと自信がある方なのだが。

 僕はリビングのソファーに座って、必死になって思い出そうとした。 

 けれどもまったく思い出せずにいた。

 どうしても火曜日の記憶がまったく思い出せない。

 火曜日。

 僕はいつもどおり買い物にいくはずだったのだ。

 それなのに、買い物には行かず、そもそも家にも帰らず、どこで何をしていたのだろうか。

 だめだ。まったく思い出せない。

 僕はふと思った。

 もしかして、これが事故の後遺症なのではないか。

 つまり、記憶喪失?

 まさか、と思った。

 けれども、たしかに車にぶつかった時には天地がひっくり返るんじゃないかと思うくらいの衝撃を頭に喰らった。

 体に異常はまったくない、と医者は言っていた。幾分、適当な医者ではあるが。

 もし、本当に記憶喪失だとしたら。

 そう考えると僕は急に怖くなってきた。

 記憶がない、というのはこんなに怖いものなのか。

 自分が、自分の知らない行動をしている。 

 いったいどうしたものか。

 そして極めつけは、あの『米盛旬果』の画像である。

 僕はその日、彼女に会っていたのだろうか。

 その記憶はまったくない。あったとしても、思い出せない。

 なら、彼女に直接聞いてはどうだろうか。

 あの日、僕は君と会っていたのだろうか、と。

 いや、とてもじゃないが自分からは話しかけられない。

『触らないで!』

 あの高校生活の初日。

 悲痛な表情で彼女は、僕にそう叫んだ。

 あれは堪えた。

 かなりショックだった。

 僕はそれですっかり彼女への苦手意識が植えつけられた。

 とてもじゃないが自分からは話しかけられない。

 どうしよう。

 火曜日のあの事故の日の記憶を探るには、彼女に直接聞くしか術はない。

 このスマホの中にある画像の真相を探るには、彼女に直接聞くしかない。

 連絡先を知っていれば、あるいはメッセージを飛ばして聞けるかも知れないが、僕は彼女の連絡先を知らない。

 どうしよう。

 僕は途方にくれてしまった。

 僕が考えあぐねていると、ふと、ケータイが知らない番号から電話がかかってきた。

 僕はびっくりしてソファーから落ちてしまった。

 スマホもどこかに落としてしまったらしく、着信音を頼りに慌てて探した。

 焦ってしまっているのか、着信音ははっきり聞こえるのに、なかなかスマホが見つからない。

 そしてようやくソファーの下から探し当てると、着信は切れてしまった。

 通知を見ると、やはり知らない番号だった。

 これはいったい誰からだろうか。

 番号の並びからするに、誰かからのケータイ番号だ。

 電気やガスの電話はすべて市外局番からかかってくる。

 しかし、ケータイ番号からかかってくる人物は思い当たらない。

 いったい誰からなのだろうか。

 僕はさっきの記憶喪失も相まって、怖くなってかけ直すことができなかった。

 どうしよう。

 たまらず僕は、唯一の友人である今村に電話をかけた。

 誰でもいい。

 とにかく人と話がしたかった。 

 ひとりでいることが急に怖くなった。 

 とにかく誰でもいいから、話を聞いて欲しかった。

 今村はすぐに電話に出た。

「もしもし」

 今村は感情のない声でそう言った。

「もしもし、今村かい?じつは聞いて欲しいことがあってさ。どこから話したらいいかわからないんだけど、とにかく聞いてくれよ。何もかもが変なんだ。何が変というと、これはもう僕の人生の根本的なことに関わる問題であって」

「悪いが今は取り込み中だ」

「おねがいだから話を聞いてくれよ。とにかく大変なんだ。今どこにいる?何してる?とにかく会って話がしたい」

「なんだか普通じゃないな。よし、なら後でそっちに行く」

「ありがとう。とにかく大変なんだ」

「普段は取り乱さないお前が珍しいな。まぁ、大丈夫だ。なんでも聞いてやる」

「助かるよ」

「いつもお前は俺の話を聞いてくれるしな」

「そんなのいいんだよ。君の話はいつも面白いからさ」

「だろう?俺の話はいつも面白いんだ」

「ところで今なにしてんだっけ?」

「今は授業を受けている」

 彼は何でもないような声でそういった。

「ごめん、あとでかけ直すよ」

 僕はそう言って電話を切った。 

 彼はやっぱり今村だった。

 ってか、授業中に電話に出るなよ。

 僕の心のツッコミは、もしかしたら口に出してしまっていたのかもしれない。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました