水曜日のラントカルテ 第5話

 その女の子は、僕がクラスで気になっている子だった。

 明るくて、お話好きで、元気よく僕を外に連れ出してくれる、ショートカットの可愛い子だった。僕とその子は、毎日それとなくなんでもないきっかけを見つけて話したり、ちょっとした手紙のやりとりを行ったりしていた。

 僕にとってそれは、何やら特別なやり取りのように思えて毎回ドキドキだった。

それは僕が小学校2年生のバレンタインデーのことだった。

 バレンタインデーの当日になって、その日が、女の子が好きな男の子にチョコをあげる日だということを僕は仲の良かった友人から初めて聞いた。

 それを聞いて時、僕は真っ先に彼女のことが頭に浮かんだ。

 もし彼女からチョコをもらえることができたら、どんなに幸せだろうと。僕も彼女のことが好きだし、もし彼女の僕のことが好きならこれ以上素敵なことはない。それは母のちょっとした神経性な危うさに毎日悩まされている僕にとって、とても魅力的な癒しだった。

 そしてそのときはやってきた。

 僕は彼女に呼ばれた。

 体育館の裏に来てほしいと言われた。

 僕はすぐに体育館の裏へ行き、彼女からチョコをもらった。

 好きだった子から、僕はチョコをもらったのだ。

 彼女は言った。

野上くんのこと、ずっと好きだからね。

 それは僕が今までで聞いた言葉の中で、一番うれしかった言葉であった。

 好きと言われて、それもずっと好きでいると言われたのだ。

 それは味わったことのない感覚であった。

 胸の奥からワクワクした気持ちがどんどん溢れてきて、授業中も、ごはんを食べているときも、テレビを見ているときも、寝るときも、収まることを知らなかった。僕の人生は、この感情に包まれて続いていくものだと思った。このわくわくが、永遠に続くと思い込んでいた。

 けれども、幼い僕の小さな幸せはそう長くは続かなかった。

 僕はとある重要な見落としをしていた。

 僕はバレンタインデーの当日になってその存在を知った。

 そして、ホワイトデーも当日になって、その存在を知ったのだ。

 ホワイトデー。それはバレンタインデーのお返しをする日なのだと。

 ホワイトデー。

 僕はそんな日が存在するなんて思いもしなかった。

 あとになって、それはすごく地味で、デパートとかでもあまり売り上げに関与できず、しかもお返しは別に食べ物でなくてもいいということがわかった。

 僕は好きだったその子に、結局なにもお返しができなかった。

 素直に謝り、ホワイトデーがあることを知らなかったと告げた。

 けれども彼女は納得しなかった。

 彼女は、自分のことをないがしろにされたと思い込んでひどく傷ついた。挙句、教室の真ん中で泣きだし、僕のことを罵倒した。

 僕はショックで何も考えることができなかった。

 泣いている彼女に、何か言うこともできず、ただ立ち尽くしていた。

 そんな悲しいホワイトデーの日の放課後。僕は彼女と仲のいい女子たちに呼び出された。本人ではなく、彼女のグループの女子たちに囲まれて、僕は問いただされた。

 どうしてホワイトデーのお返しをしなかったのかと。 

僕はホワイトデーの存在を知らなかったと正直に話した。けれども彼女たちはそれで納得してくれなかった。

その日を境に、僕が初めて好きなったその子は、僕と口を聞いてくれなくなった。

 教室で会っても、話しかけても、僕を無視するようになった。

 僕は次の日、クッキーを買って、遅くなってしまったがホワイトデーのお返しをした。

 プラモデルを買おうとひそかに貯めていた貯金を全部取り出して、そのお金で買える一番いいクッキーのお菓子を買った。

 けれども彼女は僕を許してはくれなかった。

 それどころか、彼女のグループの女子たちから僕はイジメを受けるようになった。

 持ってきたはずの教科書を隠されたり、わざとプリントを回さなかったり、僕への悪い噂を流して孤立するように仕向けた。僕が大事に校内で育てていたミニトマトが踏みにじられていたりもした。

 僕は自分の置かれた状況を母に相談することもできたのだが、僕はそれをしなかった。

 僕はその当時から、母に対して微塵も期待感を抱いてなかったのである。

 幸い、そのいじめは2ヶ月と続かなかったが、幼い僕にとってはそのいじめの期間は永遠に続くとも思われる長い苦痛の日々だった。

 そのいじめを彼女が指示したどうかはわからないが、それから僕は長い間彼女と関わることはなかった。というより、彼女を避けるようになった。あるいは考えないようにした。もしくは、忘れることにしたのだった。

 僕と彼女が普通に話せるようになったのは、高校入試を控えた冬だった。

 当時の僕は、付き合っていた女の子にひどい振られ方をし、挙句にその子は自ら命を絶つという、なんとも後味の悪い思いをした。 

そしてその女の子と入れ替わるように、再び現れた子がいた。

 その子は、かつて僕が好きになり、バレンタインデーに両想いになり、ホワイトデーに仲違いをしてしまった『西里津花』であった。

里津花は、過去のことは特になにもなかったかのように振舞った。

僕と同じ高校を受験することになり、塾も僕が通っている塾に入ってきた。

 そして無事、今の高校に入学することができ、今に至る。

 今に至って、僕は思う。

 僕は、里津花と小学校のころに両思いになれた『心地の良い思い出』だけを抱え、彼女によっていじめられたこと、傷つけられたことを体良く忘れていたのかもしれない。

 彼女のしたたかさや激しい憎悪のような影を見ないふりしていたのかもしれない。

 今になって、僕は思う。

 もしかしたら僕は、楽しい思い出だけを覚えていたかったのかもしれない。

 嫌なことから逃げて、都合のいいことは忘れて。

 過去に向き合うこともなく、現状のままでいたいと思っていたのかもしれない。

 けれども、それではだめなのかもしれない。

 過去を振り返りながら、今になって僕はそう思う。

 どんなにしんどくても、どんなに過去が醜くても、みっともなくても。

 僕は今をちゃんと向き合わなければならないのだ。

 だからこそ、今度こそ僕は会いに行く。

 『米盛旬果』

 今度こそ僕は、君に会いにいくことにする。

「いったい観覧車一周する間になにがあったんだ。滅びてしまえばいいのにってくらい、お前ら仲良くしてたじゃないか」

 駅内にある、座れるスペースになっている階段で今村は、やや困惑したように僕にそう聞いてきた。

 駅内にはダイヤを知らせるアナウンスが遠くから聞こえてきたり、新幹線の走る音が飛び交っている。

 辺りはすっかり夜になろうとしており、駅内は会社帰りや部活帰りの学生で賑わい始めている。

「里津花に告白されて、それを断った」

 僕は隣に座っている今村に、正直にそう答えた。

 それを聞いた今村は驚いた表情になり、一段上の後ろに座っている川島と目を合わせた。

「俺たちはてっきり、お前と西里津花が、俺たちを踏み台にして付き合おうとしているのかと思っていたよ。というか、もう付き合い始めているとさえ思っていたが」

 今村は、自分たちの思い込みが違った方向に向かっていることに、少なからず戸惑いを感じているようであった。

「里津花とは、昔両思いになったことがあるんだ。小学2年生のころだけどね。結局、僕が彼女を怒らせて、すぐに仲違いしちゃったけど」

 僕は彼女との子供のころの経緯を簡単に話した。

 こうやって話してみると、考えたらとてもありふれた、子供同士のどこにでもあるような絵に描いたストーリーのように思えて、なんだかおかしくなってきた。

「子供の頃の話だろ、それ。なんでまた付き合おうとしないんだ」

 僕は聞かれたことに答えようとしたとき、川島が先に口を開いた。

「米盛さんのことがあるから、じゃないかな」

 僕は川島の方を振り向いた。

 川島はやや下を向いたまま、続けて話し出した、

「きっと野上くんは、米盛さんとの無くした記憶のことで、西さんとの交際をためらったんじゃないかと僕に思う」

 冷静に分析するかのように、川島はそういった。

 しかし隣の今村は納得がいかない様子だった。

「だったら、付き合うのは断らずにだな、待ってもらえばいいじゃないか。『今はいろいろ立て込んでて、それが解決したら付き合おう』ってさ。あんないい子いないぜ?可愛いし、愛想もいいし、どっかの誰かと違って消しゴム触っても怒らないだろう」

「普通はそんなことじゃ怒らないでしょ」

 僕が黙っていると、川島がそう言葉をつなげた。今村はそんな揚げ足を無視するように言葉をつづけた。

「悪いようには言わん。米盛に構うのもいいけど、とりあえず西里津花と付き合ってて損はないぜ?お前にはもったいないくらいだ。お前の得意なもんって言ったら部屋干しくらいじゃねぇか」

「いや、他にももっとあるでしょ」

 川島が呆れるようにそうツッコミを入れた。

 そのやりとりは、聞いていてどこまでも日常的で、ありふれていた。

 最初は戸惑ったが、ちかごろはこのふたりのやり取りが妙に心地よくなってきている自分がいた。

今まで友人なんて特別欲しいと思ったことはなかったが、ふたりとはなんとなくこれからもこういう関係でいたいと思えてしまう。

 どこがとははっきりわからないが、僕はちょっと前より少し変わったのかもしれない。

「里津花のことは好きだけど、たぶん、もう付き合うことはないと思う」

 僕は落ち着いた気持ちでそう二人に話すことができた。

「どうして?」

 友人二人の視線はまっすぐ僕の方を向いている。

 僕はゆっくり言葉を思索した。もしかしたらこれから言う言葉は、自分に返ってくるかもしれない。

今から言った言葉によって、自分の方向性みたいなものが決定付けられる可能性がある気がした。

 だから僕は慎重に、それでいて曖昧にならないように言葉を選んだ。

 その言葉は、誰かに対していう言葉だが、本当は自分に対して言う言葉でもあるのだ。

「里津花とは友達でいたいんだ。彼女とは感情が入り込まない関係でいたほうがうまくいく気がするんだ」

 僕がそう言うと、二人の友人はかみしめるかのようにその言葉を受け止めた。

 そしてややあって、今村が言った。

「つまりこれからもいいクラスメイト兼異性の友人として付き合っていきたいということか」

「そういうことになるね」

「それで西里津花が納得するのかよ」

「わからない。本人に直接言ったわけじゃないから」

 そう。本当はこれは本人に言わなければいけないのだ。

 ちゃんと会って、ごまかさず、逃げずに話すべきなのだ。

「西さんは複雑だろうね」

 川島が同情するようにそう言った。 

 たしかに川島の言う通りだ。

 僕が友人として付き合っていきたいとしても、彼女の方がそれをすんなり受け入れてくれるとは限らない。最悪の場合、小学2年生の時のようにまた絶縁してしまうことだってある。むしろその可能性の方が高い気がする。

「でもそれは里津花会って、わかってもらうしかないよ。僕には付き合う意思はないんだから」

 僕は自分でそう言いながら、だんだん自分の気持ちが固まっていくのを感じた。

 こういう感覚は初めてだ。

 つまり、自分の方向性というか、潜在的な気持ちというか。そういうのは頭の中でぐちゃぐちゃになっていて、誰かに問いかけられたり、あるいは意味を投げかけられたりして、それを言葉で表そうとする。そうすることによって自分が『本当に考えている』ことが明確になり、自分でも気がつかなかった気持ちに気がつく。もしくはそう思っている自分を発見する。

 僕は、自分が考えている以上に自分を知らない。

 僕は、自分が考えている以上に自分のことがよくわからない。

 だからそこにはもうひとつのファクターというか、キャッチボールのような作業が必要なんだと思う。

 そういうやりとりの中で、これは自分なのではないか、というものを見出していくしかないのだろう。

 なるほど。だから友人は必要なのかもしれない。

 将来僕にも子供ができたら、こう教えよう。

 とりあえず友人は作っておけ、と。

「まぁ、お前がそう言うんならそれ以上は何も問わん」

 今村は、どことなく諦めたようにそう言った。もしくは本当に何かを諦めたようだった。

「なら、お前はこれからどうするんだ?」

 そして急に話を方向転換させた。

 僕はいきなりそう聞かれ、一瞬なんのことかわからなかった。

「いや、だから。お前はこれからどっちに行くんだ。西里津花をこれから追いかけて自分の気持ちを話に行くのか。それとも、米盛が待っている『あの公園』に行くのか」

 今村は当たり前のように、あるいはやや呆れたようにそういった。

 そうだ。

 僕がここで話しているだけでは何も進まない。

 僕は決断しなければならない。

それもなるべく早く。

そう、僕の気持ちはもう決まっている。

「行ってくるよ。米盛旬果のところに」

 僕は立ち上がった。

 今もおそらく、彼女は『あの公園』にいるだろう。

 大きな木が真ん中にあり、その枝には傘が引っかかったままの『あの公園』に。

「西里津花の方に行かなくていいのか」

 今村が心配するようにそう言った。

「うん。今は、米盛の方に行くよ」

 僕はそう返した。

「なら、これを持っていくといいよ」

 そう言ったのは川島だった。

 彼はポケットから紙切れのようなものを僕に手渡した。

「それで米盛さんに電話して、どこか話しやすいところに誘うといいよ」

 川島から渡された紙切れには、ケータイの電話番号が書かれてあった。

「この番号って?」

 走り書きのように書かれたその番号には、当たり前だがまったく身に覚えがなかった。

「米盛さんのケータイ番号だよ。君たちから頼まれて、とりあえずケータイの番号だけは入手できていたんだ。本当はさっき渡してもよかったんだけど、なんか、思い通りに動かされているみたいで嫌だったんだ」

「思い通りに動かされている?」

「まぁ、ちょっと意地悪してやろうという心理が働いたのさ」

 川島は、今更だが僕にはあまり理解しがたい論理基盤で生きているのかもしれない。

 最初会った時から、なんだか難しいことを言うようなやつで、なにを話しても理屈で返されてしまうタイプの人間だと思っていた。取っ付きづらいとさえ思っていた。

「そっか。でも助かるよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 川島という人間を理解することはできないが、まぁ、僕らとそんなに考えていることは変わらないだろうという風に思えてきて、今ではちょっとした親近感を沸くくらいにはなってきている。

「っていうか、よくあの訳のわかんない米盛旬果の電話番号を手に入れたな」

 今村が不思議そうにそう川島に聞いた。

「本当のことを言うと、本人から直接聞いたわけではないんだよ。Ame caféのマスターが教えてくれたんだ」

「おいおい、あの店長何者だよ。なんであいつが米盛の番号知ってんだよ」

「僕にもよくわからないけど。けどあのカフェには米盛さんはたまに来るんだ」

「そうなのか」

 今村は驚いたようにそういった。

 もちろんそれは僕にとっても意外な事実だった。

 米盛もあのカフェに来ていたなんて。

 川島のときといい、里津花のときといい、世界は僕らが知らないところで案外小さく回っているのかもしれない。

「僕は一度だけ米盛さんがame caféにいるところを見たことがある。店長とも親しく話をしてた。というより、店長が一方的に絡んでいた、という方が近いかな」

 川島がそのやりとりを、難しい本を読みながら眺めている光景が目に浮かんだ。

「この個人情報がうるさいご時世に、よく教えてくれたもんだ。俺だったら顔が動物に似ている奴には他人の電話番号は教えないけどな」

「それは僕のことかい?」 

 そうして友人二人は、いつものような問答を始めようとしていた。

「まぁまぁ。川島をそれだけ信頼していたってことでしょ」

「いや、まず僕が動物に似ているって言われたことを否定してよ」

 川島は明らかに複雑な表情を浮かべた。

「とにかくこれは渡したからね。今からかけるよね?」

 やんわり話を元に戻した川島が、僕の方に向き直った。

「そうした方がいいよね」

 僕はスマホを取り出し、渡された紙切れに書いてある番号を睨んだ。

 深呼吸をして、気持ちを整えた。

「彼女はコーヒーが好きだから、ame caféに誘うといいよ。やはり電話じゃ、そういう話はしづらいと思うし」

 川島の言うとおりだった。

 電話で長々と話す内容でもないし、かと言って『あの公園』で長々と話すのもなんだか落ち着かないだろう。

「いよいよだな。直接対決ってやつだな」

 今村は面白がっているように見えた。

「もしカフェに誘えたら、俺らも一緒に行ってやるよ」

「え、本当かい?」

 今村のその発言に僕はちょっと意外に思った。

 いつもだったら、あとは頑張れよ、と言ってこのまま解散する流れだと思ったからだ。

 友人としての親切心に駆られたのか、もしくは単なる好奇心なのか。おそらくは後者だと思うが、それでも二人が近くにいてくれるのはありがたかった。

「え、僕も?」

 川島はそれを言われて一瞬戸惑った様子だったが、お前もいくだろ、と今村に強めに押されて、やれやれと言った表情で承諾した。

「ほら、さっさと電話しろよ。番号間違えんな」

「うん」

 僕は再びスマホを眺め、そして意を決して番号を入力した。

 

 僕らがame caféに訪れたときには、もうすぐ夕方も終わりといえるような時間帯になっていた。

 Ame caféには僕と今村と川島の三人しか客はおらず、店内を流れる物悲しげなジャズが僕にどことなく緊張感を与えていた。

 今村と川島は僕とはやや離れた席に座っていた。

 電話すると米盛は、この店で会うことを了承してくれた。

 短いやり取りで済んだため、僕は少し安心した。

 米盛は歩きなのか、自転車なのかわからないが、かならず来ると言った。

 僕は4人がけのテーブルで一人、米盛旬果を待つことになった。

 僕は緊張していたし、それが顔に出ていたのだろう。店長がコーヒーを出してくれた。いつもどおり陽気な笑顔を浮かべていたが、どことなく訳知りな表情を浮かべていた。

 店長はコーヒーを僕の席に置くと、いつもはすぐに厨房へ去っていくのだが、今日はなぜかその場に立ったままでいた。そして、おもむろに僕の目の前の席に腰掛けた。

「米盛さんが来る前に、僕からも少し話をしておいたほうがいいと思うんだ」

 店長はそう前置きをした。あいかわらずいつもの陽気な笑顔を浮かべたままだった。

「店長は、米盛旬果とどういう関係なんですか」

 『あの公園』での一連のやりとり。

 米盛とは無関係ではないことはわかる。

 目の前の彼には、どことなくそれを簡単には話してくれないだろうという距離感のようなものを感じた。他人との間合いを絶妙な間合いを保つ術を長い年月をかけて習得したような、独特の余裕さがある。それは彼が持つ『陽気なミステリアス』さにも関係していることなのかもしれない。

「彼女は、『米盛旬果』ちゃんは、僕が昔付き合っていた恋人の子なんだ。綺麗な子でさ。心配症で、いつもなにかに怯えているような子だったよ」

 店長はそう言うと、窓の方を向いた。

 僕も釣られて窓に目線を移した。

 外では、雨が降り出していた。

「あれは、僕がまだ20代初めのころだったよ」

 降り出した雨のように唐突に、それでいて静かに店長は語りだした。

「当時の僕は、何かを始めたくてウズウズして、落ち着かない性格だった。まぁ、それは今もそんなに変わっていないんだけどね。仲間を集めて、いろんな事業に手を出したよ。人を集めて、グループを作って。フリーマーケットを主催したり、小さな事務所を借りて勉強会をやったり、同人雑誌を作って売ったりした。とても楽しかったよ。お金が稼げる時もあったけど、それよりも僕は仲間と一から何かを作り上げる作業が好きだったんだ」

 僕らが生まれるずっと前から、店長の交流関係は広く、自信に満ち溢れていて、それでいて他人との距離をわきまえた人間だった。

 店長には壮大なビジネスの構想があり、同時に自由を愛した。

 彼のもとにはたくさんに人が訪れ、協力し、時には分かり合い、時には意見が食い違い、そして去っていった。

「僕のことを胡散臭いやつだと揶揄する人間もいたよ。僕は基本的に、そういうやつは相手にしないんだけど、そういう輩は放っておけばおくほど、悪い噂を流したがる。そして流したあとは、自分がそうしたことも忘れて、自分が作った嘘を本当だと信じてしまう。とても都合よくできているんだよ」

 店長には極めてはっきりしたビジョンがあり、それを理解できない人間には単なる金の亡者か、あるいはインチキなペテン師だと罵る人間も少なからずいた。

 店長の人間性を信じられない人間は、一人、また一人と彼のもとを去っていった。

「今とは違って、人が風評を信じやすい時代だったよ。何の科学的根拠もないものを信じて、ソースもないことを受け入れて。でもそんな僕のことを、最初から最後まで信じてくれた人たちもいたよ。その一人が『彼女』だった」

 米盛旬果の母は、店長のあっというまに恋仲になり、お互いカフェが好きということもあっていろんなカフェを訪れた。

「今、僕がこうやってカフェの店長をしているのも、彼女の母親の影響も少なからずある。残念ながら彼女は紅茶派だったけどね」

「店長は、彼女とどうして別れてしまったのですか。つまり、米盛旬果の母親と」

 僕は無粋な質問だと思ったが、どうしてもその問いをせずにはいられなかった。

「それはたぶん、僕が彼女のことを『恋人』ではなく、『仲間』として見るようになってしまったからだろうね。彼女は、そうなることに怯えていたけど、当時の僕は気がつかなかった。アホだったんだろうね」

 店長は自分を嘲笑するかのようにそう語った。

 雨は少しずつ強くなっていった。

 米盛は大丈夫だろうか。ちゃんとここまで来られるだろうか。

 僕は心配になりつつも、店長の話が頭から離れなかった。

「米盛ちゃんを最初に見たときは面食らったよ。だって彼女と瓜二つなんだもん。あのクールな目元なんかそっくりさ」

 店長がそう言い終わると、突然店のドアが開く音が聞こえた。

 僕は音がした方を振り向いた。

 そこには、長い髪に雨を滴らせた、米盛旬果の姿があった。

 店長はいつもの様子で、いらっしゃい、と言った。

「さて、僕の話はこの辺で。あとは若い人たちでやってよ」

 そういって店長は席を立ち、厨房の方へ去っていた。

 店内には軽快なBGMが流れていたが、どこか他人行儀な静けさに包まれていた。

 米盛旬果は、カバンから出したタオルで髪と体を拭き、暖かいコーヒーを注文して、ゆっくりと僕の真向かいの席に腰を下ろした。

 髪が濡れており、艶っぽさがあった。唇はいつも以上に潤っていて、幼さの影に危うさを感じ、その妙なバランス加減が僕を強く引きつけた。

 やっぱり、米盛は綺麗だ。

 僕は素直にそう思った。

 見とれていたと言ってもいいだろう。

 そしていつものように、言葉を失ってしまった。

 これまでそうしてきたように、僕は何も言えなくなってしまった。

 真実から遠ざかり、何もつかめないまま。

 でも今日は違った。

 ここは『あの公園』ではない。

 ここには、僕だけじゃない。

 友人ふたりの姿が奥の方に見える。

 なぜか僕はそれだけで少し安心を覚える。

 彼らは、とくに何かするわけではなく、ただ席に座ってスマホを眺めているだけなのだ。

 なのに今の僕にとっては、それがまるで今にも沈みかかっている船に掲げられた大きなセイルのように思える。

 彼らがいるだけで、いつもような動揺はなかった。

 少し落ち着いて、何から話そうかと考えることができている。

 そうしていると、米盛の方が先に口を開いた。

「腕、大丈夫?」

 米盛は微かに心配するかのようにそう言った。

 声のトーンは低く、それでいてよく通る声をしていた。

 考えたら僕は、いままで米盛の声を意識したことがなかった。

 声自体は低いものの、独特の艶があって幼くも聞こえるし、大人びた感じにも聞こえる。とても不思議な声だった。

「う、うん。もうなんともない」

 僕はどことなく尻込みするような情けない返事をした。

 腕のことなんて、今のままで忘れていたくらいだ。

 本当に大事なことは、それじゃない。 

 もしかしたら僕らは大切な約束を交わしたかもしれない。

 あるいは大事な秘密を共有したのかもしれない。

 あるいは、お互いに特別な関係になっていたのかもしれないのだ。

 なのに、僕はそれを忘れてしまった。

 交通事故とはいえ、『失くされた』方としては、決して愉快ではないだろう。

「雨の中、呼び出してごめん。さっきまでは降っていなかったものだから」

「いいの。雨はいずれ止むから」

 そういって米盛は黒く長い髪を耳にかけた。湿った髪が上質な艶をのぞかせた。見ている者に現実と幻想を彷徨わせるような美しさがあった。

 僕は呼吸を整え、思いきって話を切り出した。

「じつは、その、話があるんだ」

「うん。それはさっき聞いた」

 どことなく突き放した響きがあった。

 彼女はいま、どんなことを考えているのだろう。

 早く要件を話してほしいと思っているのだろうか。

 注文したコーヒーが早く届かないかと思っているだろうか。

 あるいは、早く『殺して欲しい』と思っているのだろうか。

「えっと、その」

 僕は声を出すたびにいちいち呼吸を整えなければならなかった。

 心を落ち着かせなければならなかった。

「米盛、さん。じつは僕は」

 米盛は短く、うん、と答えを待った。

 それから長い沈黙が流れた。

 店内のBGMと雨の音とコーヒーの匂いが僕らを包んだ。

「ずっと、言わなくちゃならないことがあるんだ。君に」

 米盛は沈黙したままだった。

 僕はさらに言葉を続けた。

「じつは、覚えていないんだ」

 僕は絞り出すようにそう言い切った。

 言われて米盛は首をかしげた。眉と眉の間に小さなシワが生まれ、訝しい眼差しになっていた。

「なにを?」

 米盛の顔は、表情のない顔から、さらに表情を消したような顔になっていった。

 僕は必死になって言葉を探した。言葉を探せば探すほど、適切な言葉がどんどん離れていくようだった。

「覚えていないって、何をなの?」

 米盛はゆっくりとそう僕に尋ねた。

「水曜日に、君と会ったときのこと」

 僕は続けて答えた。

「僕が事故に遭った水曜日。僕は、君と会っていたと思うんだ。何かを、話したと思うんだ」

 米盛は、何かを探すかのようにじっと僕の両目を見つめていた。

「その日のことを、僕は覚えていないんだ。何も」

「覚えていない?それは、どうして」

「事故のせい、だと思う」

 僕がそう答えると、彼女はしばらく静止したように黙っていた。何かを考えているようにも見えるし、僕の言葉の意味を理解しようとしているようにも見えた。

 雨はまた少しずつ強くなっていった。細かい雨の粒がame caféの窓を小うるさくたたき、それは僕を焦らせているかのように聞こえてくる。

 店内は静寂に包まれていた。

 店長も、奥に潜んでいる今村も、同じ席に座っている川島も、まるで電源を切ってしまったかのようにその存在を感じられなかった。

 僕の言ったことを、米盛は理解してくれただろうか。

 今の言葉で、彼女に伝わっただろうか。

 僕は心配になった。

 彼女から何もアクションがないことに、僕はさらに不安になった。

 けれども自分からかける言葉は何も見つからなかった。

 ただひたすら、居所の悪い沈黙が宙に舞っていた。

 すると、米盛が震えた声で何かをつぶやいた。

「本当に、本当に覚えていないの」

 消え入りそうなその声は、かろうじて僕の耳に入ってきた。

 どこか悲痛を押し隠すような声に、僕はただひたすらやりきれない気持ちになっていく。

「あの日のこと。あの日、野上くんが、私に言ってくれたことも、私にしてくれたことも。何も覚えていないっていうの?」

 米盛の声が、少しずつ明確な哀しみを帯びていった。抑えきれない感情を、必死になってこらえている。僕には彼女がそう見えた。

「本当に、何も覚えていないの?」

 すがるように声だった。まるで、自分一人が取り残されてしまったかのような孤独感。置いてけぼりにされてしまったかのような絶望感。

 やっぱりこんなこと言うべきではなかったのだ。

 もっとうまいやり方があったかもしれない。彼女が悲しむことのない方法が。

 それをもっと探すべきだったのだ。

 目の前の、もろくも美しい彼女を、傷つけずに済む方法が。

 どうして僕はそれをもっと考えなかったのだろう。

「せっかく。せっかく私のことを、見つけてくれる人が現れたって思ったのに」

「米盛さん、あの」

「やっと、特別だって思える人ができたと思ったのに」

「ほんと、ごめん。でも僕は」

「あの日のことは、なかったことなの?全部、なかったことになっちゃったの?あれは、なんだったの!?あなたが話したことも、私が話したことも、全部、全部、全部、なにもかもぜんぶ!」

「それはちがうよ、だから、僕は」

「覚えていないんでしょ!変だと思った。昨日も、その前の日も。野上君、なんか変だと思った。よそよそしいし、どこかぼんやりしてた。全部、忘れちゃったんだ」

「お願い、聞いてよ。それは」

「私だけが覚えてて。いつもそうだった。私は、いつも取り残されるの。学校の勉強も、新学期も、誕生日も、思い出も。いつも私が来たら、私ひとりだった。それは私のせいなの?私は生きてちゃいけないの?どうして私が来たときには、誰もいないの、ねぇ、教えてよ、野上くん!」

 店長が、旬香ちゃん、落ち着いて、と声をかけた。

 米盛は立ち上がった。

 そして体を店の入り口に向け、出口へと歩いて行った。

 僕はとっさに追いかけ、彼女の名前を呼んだ。

 そして、反射的に彼女の腕をつかんでしまった。

 すると、米盛は僕の腕を振り払い、

「触らないで!」 

 と叫んだ。

 そして雨の中へ走って行った。

 その顔を僕は生涯忘れることができないだろう。

 一人の少女の、哀れな悔しさに満ちたやり場のない怒りに包まれたその顔を。

 その顔は正真正銘、僕に向けられたものであり、その言葉はまぎれもなく僕に向かって放たれたもので。

 それは本当は一緒になって僕が背負うべきだった感情なのだ。

 どうして忘れてしまったのだろう。

 どうして思い出してくれないんだろう。

 どうして、いつも僕は。

「追いかけるんだ!野上君」

 その声を聞いて、僕ははっと顔をあげた。

 振り返ると、それは川島だった。

「そうだ。早く追いかけろ!見失うぞ!」

 今村だった。

 二人は今まで見たこともないくらい真剣な表情で僕を見ていた。

「早く!ほら、行くんだよ」

「けど、行ってどうするんだよ」

「ばかやろう。そんなのお前が考えろよ!」

「僕には無理だよ!だって、僕は何も覚えていないんだ!」

「だからなんだってんだ!お前は何かやったか?何か動いたか!?いつもいつも人に頼って、自分では何もしないで。お前、このあいだオレにいったよな!思い出すべきたって。お前の頭の中にはちゃんと入ってんだよ!覚えてなくも、ちゃんと記憶はあるんだよ!ちゃんと頭に入ってんだよ!だからあとは、お前が何とかしないといけないだろ。違うか!?」

 今村は怒鳴るようにそうまくしたてた。

 彼のそんな姿は、これまで見たことなかった。

 いつもいい加減で、自分勝手で、無神経で自分の利益を最優先にするような男なのに。

 なのに今の彼の言葉には真剣さが迷惑なくらい伝わってきた。

「ほら、とっとと行けよ!」

 言葉は理解できなかったが、けれどもそれは僕を突き動かすには十分だった。

「これ、持って行ってあげて」

 店長がそう言って、傘を二つくれた。

 開け放たれたドアの向こうには、夜のしつこい雨が降っていた。

 僕は傘を二つ握り、一度だけ今村の方を振り返った。

「今日のことは、忘れないよ。何があっても」

 僕はなぜかそういう言葉が出てきた。

 そして勢いよく走った。

 雨の中を。

 失われた記憶の中を。

 降りしきる雨には、必然性というものはない。

 僕にはそう思う。

 これまで人々は、雨にいろんな意味を持たせてきた。

 悲しみの象徴であるとか、別れの前兆であるとか。

 あるいは再出発であるとか。

 霧のようなしつこい雨だった。

 皮膚に張り付き、水滴になって体中をはいめぐる。

 そんな雨だった。

 僕には米盛がどこに行ったかわかっていた。

 彼女が行くところは、一つしかない。

 『あの公園』しかない。

 僕はなぜかそう直感できた。

 見慣れた風景も、見慣れた道も、状況や心境が変わるとまったく違って見える。

 退屈な店並びだと思っていた道も、雨の中誰かを必死になって追いかけているときにはどこかよそよそしく思える。まるでずいぶん前に一度だけ訪れた、とくに思い入れもなにもない場所のように。

 そうやって他人事のように街並みを通り過ぎ、僕はその公園へやってきた。

 その公園やってきたとき、初めて自分がこんなにずぶぬれになっていることに気が付いた。

 自転車も使わずに走ってここまできた自分に驚いた。

 そして何より、米盛旬香もちゃんとこの場所にきていたことにも。

 米盛は、これまでと同じように僕に背を向け、冷たい夜の雨にさらされていた。

 僕は彼女に近づいて行った。

 自分が、あの『水曜日』のことを思い出さないだろうか、と少し期待してしまう。

 きっと「あの水曜日」も、こうして僕はこの公園で彼女と一緒にいたのだ。

 なのに何も思い出せない。

 僕は彼女のことを何も思い出せない。

 そのことが悔しくて、自分が情けないと思った。

 もし泣くことができるなら、泣いてみたい気分だった。

 けれど、本当に泣きたいのは、きっと目の前の彼女だ。

 彼女を、米盛旬香を理解したいのに、僕はそれができない。

 彼女に、なにもしてやれない。何も思い出してあげられない。

 圧倒的な無力感が僕を襲った。

 打ちひしがれてしまう。

 僕は、君になにができるのかな。

 僕にできることはなんだろうか。

「忘れてしまった僕だけど。こんな僕でも、何か君にできることがあるだろうか」

 僕はそう目の前の彼女に伝えた。

 僕の声が届いているのか、いないのか、しばらく沈黙が続いた。

 雨はいつまでも降り続いていた。

「野上くん、わたしね」

米盛の声がはっきりとそう聞こえた。

 こちらを振り返りもせず、ただ雨に向かってそう言っているようだった。

「自分以外の人が、自分を深く知ってくれたら、どんなに素敵だろうなって思ったの。わたしのことを、わたし以上にわかってくれる人がいたら、きっとわたしはそれだけで生きていられる。そう思えるだけで、幸せになれる」

 米盛の声は、霧の雨によく響いた。

 悲壮感と希望が交じり合ったような、そんな声だった。

「わたしは、幸せになっちゃいけないのかな。そうなっちゃいけないのかな」

「そんなことない」

 僕はすかさずそう答えた。

 僕は、まるで何かに突き動かされているかのように、言葉があふれてきた。

「君は、幸せになるべきなんだ。今よりもっと、誰かに大事にされたり、誰かを大事にしたりすべきなんだ。そうやってき、生きていくべきなんだ」

 僕は自分が止められなかった。

 何かを米盛に伝えなくちゃと思った。

 それがいったい何なのか。自分でもわからなかったけれど、それでも言葉は次から次へと出てきた。

「君が誰だってかまわない。君がどんな人間だっていい」

 僕は持っていた傘を開いた。

 そう。目の前の彼女が誰だろうとかまわない。

「僕は、君のことが知りたい。もう一度、君と知り合いたい」

 僕はようやく、自分が何を言いたいのかわかってきた。

 そうだ。

 本当は僕は忘れていたんじゃない。

探していたんだ。

 彼女に。

 米盛旬香に伝えたい言葉を。

 どうしてこんなに時間がかかってしまったのだろう。

 どうしてこんな回り道をしてしまったのだろう。

 米盛は、いつもこの場所にいたのだ。

 この場所で、彼女はいつも待っていたというのに。

 傷ついて、雨に濡れて。

 ずいぶんあれこれ走り回ったけど、ようやくわかった。

「もう一度、この場所で出会おうよ」

 気づけば米盛は振り返って僕を見ていた。

 泣きつかれた表情をしており、どこか僕にすがるようにも見えた。

「もう一度?」

「そう。もう一度、僕らはこの公園で出会うんだ」

 僕はそうしたいと思った。

 もう一度、彼女とこの場所で出会う。

 やり直しなんてきかないことはわかっている。

 失われた時間は取り戻せないこともわかっている。

 それでも僕は、もう一度、彼女に出会いたい。

「今度は絶対に忘れないから。何があっても、ぜったいに忘れたりしないから」

 だからもう一度、僕と出会って欲しい。

 僕は米盛に傘を差して、そう伝えた。

「いつ?」

 米盛はそう返した。戸惑ったような声だった。

 僕はもちろん、答えた。

 その日だけは僕は忘れることはない。

 どんなことがあっても。

 僕が僕を忘れても。

 あの失われた水曜日を、僕は忘れない。

「もちろん、水曜日だよ」

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