水曜日のラントカルテ 第4話

 どちらかといえば、よくわがままを聞いてもらえた家庭だったと思う。

 兄弟がいる家庭では、よく喧嘩したり、言い合いしたり、泣いたり、笑い合ったりしていた。

でも僕は一人っ子だったし、なんでも自分のものだった。ゲームも、部屋も、机も、おもちゃも、全部自分のものだった。

自分の手に届く範囲にあるものはすべて自分のものだと僕は思っていた。

 それは僕が受け取ってしかるべきだし、誰かが奪っていい権利などどこにもない。

だから、大好きな『お母さん』も、僕のものだと思いっていた。

 そう思い込んでいた。

 僕がその勘違いに気づかされたのは、まだ小学校に上がる前のことだった。

 その日は僕の誕生日だった。

 たくさんのおもちゃを買ってもらい、おいしいケーキを好きなだけ食べた。

 父と母も笑顔で、リビングのテレビには僕の大好きなアニメが流れていた。

 僕はテレビから流れてくるアニメを見ながら、欲しかったおもちゃたちに囲まれて、この上なく幸せだった。

 それは僕が受け取って然るべきだし、誰かが奪っていい権利などどこにもない。

 ここにあるすべては僕のものなんだ。

 そうして僕がふと顔を上げたとき、そこには父も母もいなかった。

 二人はどこにもいなくて、音が鳴るおもちゃとアニメの音しか聞こえてこなかった。

 僕は怖くなって、父と母を呼びながら家の中を歩き回った。

 台所、トイレ、寝室、玄関。

 二人の姿はどこにも見えなかった。

 すると、どこからか微かに胸を打つような音が聞こえてきた。

 その音は、ベランダの方からだった。

 僕が音のする方へ向かうと、音は次第に大きくなっていった。

窓のカーテンの隙間からチカチカと光が溢れているのがわかった。

 僕がカーテンを開けると、ベランダに並んでいる父と母の後ろ姿が見えた。

 そしてその向こう側に、巨大な花火が何発も巨大な音を立てて打ち上がっていた。

 二人は花火を眺めていて、僕に気づいていないようだった。

 だから僕は叫んだ。

 花火なんかどうでもよく、僕は二人に戻ってきてもらいたかった。

 戻ってきて、僕と遊んで欲しかった。

 窓を隔てて、その二人に僕は叫んだ。

 自分が出せる最大限の声で父と母を呼んだ。

 けれども僕の二人に届かない。

 僕は何度も、何度も叫んだ。

 僕の声は、ガラスの窓と、巨大な花火の音にかき消されていた。

 すると、母が僕の方を振り返った。

 僕は母と目があった。

 僕はもう一度母の名前を叫んだ。

 当然、母は僕に気づいてくれると思っていた。

 そして、僕のもとへ駆け寄り、窓を開けてくれると思っていた。

 しかし、母は僕からゆっくり目線を外し、再び花火の方へ向き直った。

 僕は窓を何度も叩き、泣き喚いた。

 けれども二人は花火の方を向いたままだった。

 僕の声なんか届いていなかった。

 母は僕に気づいているはずなのに、どうしてこっちにきてくれないのだろう。

 どうして母は窓を開けてくれないのだろう。

 どうして一緒におもちゃで遊んでくれないのだろう。

 どうして一緒にアニメを見てくれないのだろう。

 どうして僕のことを、無視するのだろう。

 僕は今日は誕生日なのに。

 僕は今日は幸せなはずなのに。

 どうしてこんなにも悲しいのだろう。

 どうして誰もいないのだろう。

 悲しさは、大きな疑問と母への不信感に変わっていた。

 思えば母には、何度もそういうところがあった。

 彼女は時折僕を幼稚園から迎えにくることを忘れたり、僕の話を半分も聞いていなかったり、僕を祖母に預けて父と2、3日どこかへ出かけて帰らなかったりした。

 もちろん、僕のことを愛してくれているんだと思う。

 母親として、愛してくれている。

 それは伝わる。

 けれども母は、時折僕をものすごく突き放した態度で接するときがあった。

 あの、花火を見た誕生日の日からずっとあとになって僕は気づいた。

 母の優先順位は、父なのだと。

 彼女にとってなによりも一番は僕ではなく、父なのだと。

 父はもの静かな人間で、あまり多くを語らなかったが、僕にいつも優しくしてくれた。

 そんな父に、母はおそらくいまだに恋をしている。

 彼女は恋から卒業できていないのかもしれない。

 父への恋を成就できていないのかもしれない。

 だからかもしれない。

 僕が高校に入学した矢先、母が父を追いかけていったときも、僕は不思議に思わなかった。

 彼女はたとえ父が地球の反対側に行っても、大気圏の外へ行っても、どこへ行っても追いかけていってしまうだろう。

 それでも僕はどちらかと言えば、わがままを聞いてもらえた家庭に生まれたと思う。

 兄弟のいる家の話を聞けば、いがみ合ったり、ずる賢く立ち回ったり、言った言わないでもめたり、あるいはそれが信頼の裏返しだったりする。

 僕は一人っ子だったけれども。

 でも、もし僕に大切な、本当に奪われたくないものができたとき。

 僕はそれをどんなことがあっても守っていこうと決めたのだ。

 例え大切なことを、忘れることがあったとしても。

「それからお前がどうなったか、すごく気になるんだが」

 今村と僕は、中央駅の中にあるどこにでもあるような、価格がリーズナブルなカフェに訪れていた。

 現在、昼の11時。土曜日ということもあって、人の賑わいは普段よりも2割増しといったところだった。

 時流に乗って僕らもタピオカドリンクを飲んでみたが、モチモチした食感とコーヒー風味のドリンクがとてもマッチしていて、クセになりそうだった。

 この間の公園での出来事を話すと、今村はいつもとは打って変わって非常に食いついてきた。

 僕はタピオカがついつい美味しくて、つい続きを話すのを忘れて飲み進めてしまう。

「おい、どうなったか言えって。まさか、また記憶喪失か?」

 今村がややイライラした様子で再度僕に聞いてきた。

 僕だって話したくないわけではないのだが、目の前のドリンクがついつい美味しくてやみつきになっている。

 しかし、さすがにそろそろ話を進めることにしよう。

「まぁ、僕もさすがにあの時は焦ったよ。だって、いきなり『銃』を持ち出すんだもん。いくら米盛旬果がクレイジーだからって、『銃』はないだろって思ったよ」

 昨日の夜。ハイになった感情に任せて米盛に会いに公園へ行った夜。

 僕は彼女に話をすることもできず、あまつさえ向こうのペースに巻き込まれて、しまいには銃まで出てきてしまう始末だった。

 いったいなにがなにやら訳がわからなかった。

「お前は米盛に『殺してくれ』ってすごまれ、強制的に銃を握らされて、頭に突きつけさせられた。そしてなんと引き金を引いてしまった。ここまでは合ってるか」

「うん。合っているよ」

僕は本物の銃を見たこともないし、本物の銃声も聞いたことないけど、あれはすごく『リアル』だった。あの時の銃の質感や重さ、そしてなによりどこまでも乾いた銃声の音は僕に銃の怖さを教えるには十分だった。

 そのくらいの『リアル』さをあの銃は持っていた。

「まったく手が込んでいるよ。まさかあんなにリアルな『エアガン』があったなんてさ」

 あのとき米盛が持っていた銃は、弾が出ない、銃声だけをリアルに再現させた、よくできたモデルガンだったのである。

 そんなものがこの世にあるのかと思ったが、世の中には銃の『銃声』と『質感と重さ』だけにこだわったモデルガンを作る人間もいるようだ。

 そして日本の法律では、詳しいことはわからないが、偽物の銃で人を脅しても犯罪になる法律が存在している。違法改造かどうかは知らないが、少なくともそれはある意味、人の命運を左右させるためには十分な効力を持った代物であることには間違いないといえるだろう。

「つまり銃はニセモノで、銃声もどこかのガンマニアがこだわって再現した音だったわけか」

「うん。でも僕を震え上がらせるには十分だったよ」

 僕は故意とはいえ、人の頭に銃を向けて引き金を引いてしまった。

 そして実際に銃声を聞いたのだ。

 あの時は本当に気が動転した。

 本当に彼女を殺してしまったと思った。

 米盛を手にかけてしまったと本気で思った。

 あの夜。乾いた銃声が住宅街に響き渡ったとき。

打たれた(正確にはリアルな銃声を耳元で聞いただけの)米盛は、その場に膝をついて倒れ込んだ。ツルンとした彼女の綺麗な髪が細く乱れ、握っていた銃は鈍い音を立てて地面で落ちた。

 当然僕は完全に文字通りひっくり返ってしまった。

 体に力が入らず、膝がガクガクした。

 気が動転して、悲鳴に似た声を出していたのかもしれない。

 米盛は目の前で静止したように動かなくなっている。顔はよく伺えないが、僕がそれさえ見るのも怖くてできなかった。

 自分がひとりの人間を殺した、という事実がとても受け入れられず、ただただパニックになっていた。 

 僕が地面にへたれ込んでいたそのとき、背後から人の気配を感じた。

 反射的に振り返ると、そこにいたのは、

「一瞬誰かわからなかったよ。なんというか、意外な人だったんだ」

「誰だったんだ?早く言えよ」

 今村は落ち着かないかのように貧乏ゆすりをし、ストローを口にくわえて上下させている。どうやらとっくの昔にタピオカドリンクは飲み終わっていたようだ。

「僕の後ろに立っていたのはね、僕らがいつもいくカフェの店長さ。名前は知らないんだけど」

「もしかてあの『ame café』の店長か?」

 僕はうなずいた。

 あの夜の公園でひっくり返っていた僕の背後に立っていたのは、あの『陽気なミステリアス』でお馴染みの、店長だった。

 意外な人物の登場に、僕はわけがわからなくなってしまった。

 どうして店長がこんなところにいるのか。

 こんなところでなにをしているのか。

 僕は後ろを振り返ったまま動けずにいた。

「店長はいったい何しにきたんだ?」

 今村がそう思うのも無理はないだろう。

 僕だって同じことを思ったのだから。

「店長は、いつものように陽気な笑顔を浮かべて、米盛が死んでいないことと、銃がよくできたニセモノであることを僕に話してくれたんだ」

「なにやら、けっこうな事情通だな」

「うん。でもあまり詳しいことは話してくれず、ここは自分が見ているから帰るように言われたんだ」

 店長は米盛のそばに寄り添い、穏やかな声で僕に告げた。

 僕はその言葉で少しずつ冷静さを取り戻した。

 転がっている銃は、見ればたしかにどこからも銃弾が飛び出した跡が見られなかったし、米盛自身もよく見るとぼそぼそと何かを呟いていて、死んでなどいないことがわかった。

 僕はそんな状況にますます混乱したのだが、さっきまでの動揺はなくなっていた。

「それで、お前はそのまま帰ったというわけか」

「まぁ、そういうことになるよね」

「結局、何一つ解決していないじゃねぇか」

 今村は呆れたようにそう言った。

 たしかに今村の言うとおりだった。

 結局僕は、問題の解決を急ぎ過ぎ、結果さらに疑問符を増やしてしまったことになる。

 どうして米盛は銃なんか持ち出したのだろうか。

 そしてなぜ僕に殺して欲しいのだろうか。

 店長はいったい、米盛と何の関係があるのだろうか。

 わからないことだらけである。

「何度も言うが、お前が米盛に直接聞くことができたら話は早いんだけどな」

「何度も言うけど、それができないから、今日はこうして川島と待ち合わせをしているんじゃないか」

 そう。今日は土曜日で学校は休みである。

 ゆとり教育という言葉が廃れていって、土曜日にも登校しなければいけない学校が増えている中、我々の学校は基本的には週休2日を貫いている。

 僕らの高校が密かに競争率が高い理由のひとつでもある。

「お前が話したいことがあるっていうから、わざわざ待ち合わせの時間より早く着たっていうのに。事態はますますこんがらがっているじゃねぇか」

 今村がそう愚痴りたくなるのもわかるが、けれども本当に参っているのは当の僕なのである。

「だから、今日こうやって川島に例の依頼が一区切りついたって報告しようとしているんじゃないか」

 そう、今回僕らは単にタピオカドリンクを飲みに中央駅内にあるカフェに早起きしてきたわけではない。

 川島から頼まれた、例のSNSフォロワー数増加作戦(通称ホムンクルス作り)を報告するためにここへやってきたのだ。

 事前に川島に連絡したら、どこかで落ち合おうという旨の返信がきた。

 僕は今村と相談して、ここのカフェで川島と会うことに決めたのである。

「まったく難儀だったわ。けどその甲斐あって、あいつのSNS相当盛り上がっているぜ」

「たしかに。ローカルなタレントくらいだったら軽く凌駕するくらいのコメント数だよね」

「精巧に作りすぎてどれが自分たちのかわかんないくらいだ」

 実際に川島のツイッターを始めとしたSNSはかなりのフォロワー数、フレンド数を獲得している。

 川島がコメントするたびに、それにコメントしたり、いいね、をつけたりした。その盛り上がりに便乗して何かしらの反応を示した人間も少なからずいるだろう。そしてそれは川島の狙い通りの結果といえるだろう。僕らとしては、かなり振舞わされたと言っても過言ではない。

「さぞ、本人は満足だろうな」

 今村は空になったタピオカドリンクを名残惜しそうに眺めている。

 おいしいとは言え、1杯でもそこそこいい値段だった。そう何杯も飲めるものではない。

 すると僕のケータイに着信があった。

 メッセージを確認すると川島からで、もうすぐ着くとのことだった。

「もうすぐ来るみたい」

「まったく、いつまで人を待たせやがる。足短いから歩幅も短いんだろうか」

「いや、時間通りだよ。むしろ僕らが早く来たんだって」

 僕は諌めるように今村にそう言った。

「ところで野上。お前、川島に例の件を頼んだとして、ちゃんと米盛と話せるのかよ」

 今村が痛いところを突いてくる。

 そもそも僕らが川島のためにSNS盛り上げ大作戦を行ったのも、すべては米盛とじっくり話せる機会を設けるためであった。そのために七面倒臭いホムンクルス作りを行ったわけだ。

 けれども昨日の僕の様子からするに、自分で言うのもなんだが、自信が持てなくなってしまう。

 はたして僕は米盛と相対したとき、ちゃんと話せるのだろうか。

「正直自信がない」

 僕は素直にそう告げた。

 彼女を前にすると、どうしても怖くなってなにも言えなくなってしまう。

「だろうな。昨日の様子じゃ、次米盛に会ったとしても、お前はまた謎を増やすばかりで終わってしまうだろうよ」

 容赦ない物言いだが、たしかに今村の言うとおりだ。

 彼女に見つめられているだけで、僕は高校生活初日の思い出が蘇ってきて、強いトラウマに押しつぶされてしまう。

 情けない話だが、このままでは今村の言うとおり、失われた火曜日の記憶はどんどん遠ざかってしまうだろう。

「そこでだ。俺は考えたんだ。良い提案がある」

 今村はまたしても閃いたかのようにそう切り出した。

「良い提案?なにか策でもあるのかい?」

 袋小路に陥っている僕に、今村はさらにつづけた。

「目の前に立つからしゃべれないんだろ?なら話は簡単だ。電話で話せばいい」

「電話?」

「そう、電話だ」

 今村はタピオカドリンクのストローをビシと僕につきつけながらそう言った。

 なるほど。実際に本人を目の前にするからすくみ上がってしまうというのなら、本人を目の前にしなければいい。

 考えてみればそれがいちばん無難な選択のように思えた。

「ふむ。でも、僕米盛の電話番号知らないんだけど」

「それは今からくるやつに頼めばいいだろう」

 そうか、川島か。

 彼の面倒な人気稼ぎに貢献したんだ。それくらいは頼んだってバチは当たらないだろう。

 そうこう言っていると、川島が店に入ってくるのが見えた。

 彼はカウンターでタピオカドリンクを注文し、受け取ると僕らの席にやってきた。

「お待たせ。時間通りでしょ。僕は普段はこういう『流行りもの』には興味ないんだけどさ。でも、たまには時流に乗っかるのもいいかなって思ってさ」

 川島は聞かれてもいないことをわざわざ教えてくれた。

 今村は、そういうのいいから早く座れ、と急かすようにそう言った。

 川島は登山にでもいくのか、と思うくらい大きなカバンを背中から下ろし、その中からパソコンとマウスを取り出した。電源をつけながら、ケータイやらタピオカやら鏡で顔のチェックやらマイペースに準備していた。

 その間も今村はイライラした様子で待っていた。

 とことん相容れない2人だろうな、と僕は思った。

「ほんと、君たちの働きぶりは素晴らしいよ。ありがとう、というべきかな」

 川島はマウスでパソコンを操作しながらそう言った。

「礼を言うつもりなら、ここのタピオカドリンクを奢れよ」

「いいけど、それだったらもう米盛の件はチャラってことでいいのかな?」

「タピオカ一杯でずいぶん働かせてくれるじゃねぇか。いっそブラック企業に就職して、その社畜精神をツイッターで拡散させるといい」

 タピオカ一杯と言っているところ、僕の分は入っていないようだ。

「冗談だよ。ちゃんと約束は守る。僕はこう見えて義理人情に厚いし、言葉を愛している」

 川島は自分の言葉にうっとりするようにタピオカドリンクを飲んだ。

「おいしい。この柔らかな弾力、まろやかな味わい。どこかアジアを感じさせるのどごし、それでいて鼻を通るヨーロッパのお洒落な香り。写真を取ろう」

 川島はテーブルに置いてあるスマホで、持っているドリンクをパシャパシャと撮りだした。光の反射具合が気になるのか、少しずつ角度を変えながら何度も撮り直している。

「ところで本題に入るが、米盛の件、お前に任せて大丈夫なのか」

 今村はしびれを切らしたように、強制的に話を進めだした。

「うん。いいよ」

 川島はスマホの画面を眺めたままそう答えた。

 撮れた画像を確認しているのだろう。

「じつは、その件なんだけどさ」

 僕は二人の会話に割って入った。

 この二人で話を進めるのはあまり得策じゃないような気がした。

「米盛の電話番号とかを聞いてきて欲しいんだけど、できるかな?」

「電話番号?」

 川島は怪訝そうな顔でスマホの画面から顔を上げた。

「いや、考えたんだけど、直接話すよりも電話がいいかなって思ったりして」

 なぜか僕はしどろもどろな話し方になっていた。

 もし川島が米盛と僕の話の場を段取りしていたら、彼には申し訳ないが、それは白紙にしてしまうことになる。

 昨日の件で、僕は直接相対するのが難しいというのがよくわかったからだ。

 案の定、川島はよくわからないと言った顔になっている。

「急ですなまいとは思うけど、ちょっと事情があってさ。直接、話すのはちょっと無理かなって思って。電話ならなんとか話せるかもしれないんだ」

 僕はなるべく包み隠さずそう話した。

 必要なら、昨日の一連の出来事も話そうとも僕は考えていた。

「電話番号ね。いいよ、聞いてきてあげるさ」

 しかし川島はいとも簡単にそう答えてみせた。

 そんなものは造作でもないといった身振りで、余裕の態度を見せた。

「え、ほんと?」

 僕は一瞬、拍子抜けした。

 そんなにもあっさりオーケーしてくれるとは思ってもみなかったからだ。

「まぁ、おまえの虚栄心を満たしてやったんだから、それ相応のことはやってもらわないとな」

 今村がやや上から目線でそういった。

 川島はチラッと今村に視線を送っただけでなにも言わなかった。

「よかった。なら頼むよ。ありがとう」

 僕はそんな二人の空気に気づかないふりをして、やたら明るい声を出した。

 とはいえ、これで米盛の電話番号が手に入る。

 電話ならさすがに僕も緊張しないで済むかもしれない。

 あくまで『かもしれない』の話ではあるが。

「それじゃ、今日はこれで失礼するよ」

 川島はタピオカドリンクをいつの間にか飲み終えていた。

 なぜ出したのかわからないパソコンとスマホをそそくさとカバンへ放り込み、ほんの一滴しか入っていないタピオカドリンクをもう一度すすった。

「なんだ、もう帰るのか」

 今村がやや驚いたようにそういった。

「これから人と会うんだ」

 今村に聞かれたにも関わらず、川島は僕の方を向いてそう答えた。

 そこまであからさまな敵意を向けなくてもいいのに、と思ってしまう。

「なんだ、女にでも会うのか」

 それでも今村はしつこく絡むように言葉を続けた。

「残念ながら今は恋人はいなくてね。単に部活の勧誘に行くんだよ」

「部活の勧誘?」

 僕は疑問に思ってそう聞いてみた。

 今村は、彼女は今はいないなんて嫌味な言い方しやがって、とボソボソ負け犬のように呟いている。

「そうさ。じつは僕は文芸部でね。これでも部長なのさ。もっとも、活動しているのは僕だけで、残りは幽霊部員が2人」

 僕らは川島が過去の栄光にすがりついている部に所属していることは知っていたが、ここはあえてなにも言わないでおくことにした。

 今村の新しいスマホ写真部といい、里津花の掛け持ちしている部といい、どこも人で不足なのだろう。人が足りているのは、僕が行くはずだった天国くらいなものだろう。

「奇遇だな。俺たちも今度新しく立ち上げた部で部員が欲しいんだ。そいつ紹介しろよ」

 今村が喜々として川島の話に乗り出してくる。

「なんで僕が、大事な部員候補を君たちに紹介しないといけないんだ」

「紹介だけでもいいからしろよ。そいつがどっちの部を選ぶかはわからないだろ。」

「断る」

 川島はきっぱりとそう言い切った。

 これ以上は話すことはないといった様子で、リュックを背負い込むと、伝票の上に自分の分のお金を置いた。

「だったら、ついていくまでだな。ほら、野上お前もこいよ」

 僕はふいに名前を呼ばれて戸惑ってしまう。

 考えたら僕はいつの間にか今村のスマホ写真部の部員にされているようだった。

 部活届けに名前を書いた覚えもないのだが。

「ちょっと、ついてくるなよ」

 川島はあからさまに迷惑そうな顔をしている。

 それでも今村はお構いなしについていくのであった。

 

 そうしてやってきたのが、学生から家族連れまで幅広く、リーズナブルな値段で食事を提供してくれるレストランだった。

 僕らの県は過疎化が進行しいて、最低時給も全国でほぼ最下位の県だが、このファミレスだけはやたら市内に景気よくあちこち点在している。 

 数百円払えば、ドリンクが飲み放題のドリンクバーがあり、学生が長居することも珍しくない。当然、部活の勧誘にも打って付けの場所といえるだろう。

「部員の勧誘だって聞いたから来てみれば」

 今村はさもつまらなそうな声を出して、定食の唐揚げを口に運び、メロンソーダで流し込んだ。とても食べ合わせが悪そうに思える。

「なんか、その言い方はひどいなー。わたし、頼まれて来ただけなのに」

 里津花はややふてくされたようにチキンドリアをスプーンですくった。

 デニム生地のガウチョパンツに、ボーダー七分袖という、気取っていない服装だった。真っ白のスニーカーで、いかにも動きやすそうな格好だった。

 川島が文芸部に勧誘すると聞いたから来てみれば。里津花には少し悪いが、僕としてもやや拍子抜けだった。

てっきり一年生の男子生徒でも勧誘するのかと勝手に想像していた。

 川島は明らかに不機嫌そうに和風ハンバーグにおろしポン酢ソースをかけている。

「お前、いったいいくつ部活掛け持ちする気だよ。そんなんじゃ身体が持たないだろ」

「大丈夫。こう見えて身体は丈夫だし、文化部にはまだどこにも所属してないから」

「僕としては席を置いてくれるだけでもありがたい。西さんには文化祭のときに文芸誌の売り子として立ってくれる以外にはとくに拘束する気はないよ」

「本当にそれだけが勧誘の理由か?」

 今村は含みを持たせたような言い方で半笑いで川島に投げかけた。

「それはどういう意味?」

 川島は苛立ちを抑えるようにして聞き返した。

「言葉通りだが?」

 いつもどおりの険悪なムードに僕は大して気にも留めかった。

 4人掛けの席に、今村と川島は隣同士に座り、なぜか僕の隣には里津花が座っている。

 3人の注文が来ているのに、なぜか僕の頼んだカルボナーラだけ遅れていた。

「ねぇ、野上くん。この二人っていつもこうなの?」

 里津花はなぜかワクワクしたように小声で僕にそう聞いてきた。

 僕は曖昧に頷いて、烏龍茶で言葉を流した。

 いったいどういう因果でこの4人が揃ったのだろうか。

 何かの導きか、あるいは神のいたずらか。

 土曜日の昼下がりに、過疎化が進んでいるとはいえ、市内のそこそこ栄えた街中の一帯で、同じ学校の4人がひとつの空間に収まっている。そのことに僕は違和感を覚えないではいられなかった。

「西里津花。悪いことは言わない。文芸部に入るのは辞めて、俺たちのスマホ写真部に入れよ。こっちの方が楽しいぞ」

「お、おい!食事中じゃないか。そういうのは食べ終わって話すのがルールってもんだよ」

「ほう、いったいそんなルールがいつ出来たんだ?生徒手帳にでも書いてあるのかよ。市役所でもらえるカレンダーにでも書いてあるのかよ」

「僕が言っているのは、こういうのは食べながら話すことじゃないってことだよ。それに僕が先に誘ったんだから、それを差し置いて勧誘するのは礼儀にかなっていないんじゃないのか?」

「おまえの言う礼儀がどんなのかは知らないが、そんなもの訳のわからないもの振りかざしたところで、選ぶのは西里津花だろう。どのタイミングで言おうが関係ない」

「西さん。彼の部に入るより、僕の文芸部に入ったほうがよっぽど勉強になるよ。文学の深い含蓄を得ることになるし、それで西さんの聡明さもますます向上する。僕が保証するよ」

「部活で勉強してどうする。部活は好きなことをするところだろう。西里津花。俺が写真部で培った、きれいに風景を撮る技法を教えてやるよ。どうだ?」

「写真なんてどう撮ったって一緒じゃないか。構えて、シャッター押すだけでそれがなんだっていうんだ」

「わかってないねー。女子はカメラが好きなんだよ。思い出を切り取りたいんだよ、日常にアクセントが欲しいんだよ」

「君より女子のことは詳しいつもりではあるけど」

「なんだって。言うじゃねぇか、このカピパラ野郎」

 二人の白熱した勧誘合戦は収まるところを知らなかった。

 僕は正直早く終わって欲しいと思っていたが、これはたぶんすぐには終わらないだろうと思い、諦めて僕は再び烏龍茶を飲んだ。

「野上くんは、どう思う?わたしどっちに入ったらいい?」

 と、急に里津花にそう話を振られて僕はあやうく烏龍茶を吹き出してしまうそうになった。

 喉の引っかかってしまい、むせ込んでしまう。

「そうだよ、野上。お前からも言ってやれよ。スマホ写真部の魅力をよ」

「野上君。君もスマホ写真部とかいう、ひどく趣旨が曖昧な部よりも僕の文芸部に鞍替えしなよ。君にケルアックの魅力を朝まで解説してあげる」

 どういうわけか話の中心はいつの間にか僕の方に転がっていた。

 蚊帳の外を決め込んでいた僕は、どういう言葉を言っていいからわからないでいた。

 そもそも僕は部活なんて入るつもりもなく、自分の時間を大事にして、穏やかに心を乱されることのない高校生活を望んでいたはずなのに。 

 3人の同級生の視線が僕に降り注いている。

 僕は、返す言葉が見つからずにいた。

「大変お待たせしましたー。ペペロンチーノでございます」

 すると、店員が僕の料理を運んできてくれた。

 だいぶ待ったよ、と心の中でつぶやき、半ば逃げるように僕はトレーからフォークを取り出す。

「とりあえず、食べるか」

 そう言ったのは今村だった。

「あぁ、そうしよう」

「うん」

 3人はどういう思考回路で納得したのかわからないが、それぞれの料理に戻っていった。

 僕も自分の料理に戻ろうとしたのだが、僕が頼んだカルボナーラがなぜか間違えてペペロンチーノになっていることに誰も気づいてくれなかった。

「考えたんだけど」

 そう口にしたのは、里津花だった。

 僕以外のそれぞれはすでに食事を終えて一息ついているところであった。

 僕のペペロンチーノだけが、まだ食べ終えずに残っている。

 というか、不味くて食が進まない。

 僕はそもそもベーコンが食えないのだ。

「みんなで協力すればいいんじゃないかな」

 里津花は暗雲たる空気に一石投じるかのように、あるいはとくに気まずさを感じていないかのように、すこぶる明るい声でそう提案した。

「協力?」 

 僕はその提案の意図がよくわからず、おもわず聞き返した。

 今村と川島は、相変わらず黙ったままだった。

「そう。協力。ここにいるみんなで、文芸部と写真部に掛け持ちで入っちゃうんだよ」

「『スマホ写真部』な。写真部はゴミだから入ってはいけない」

 今村がそう切り込むようにそう訂正する。

「なるぼど。つまり、僕の文芸部には部員が3人追加されるし、スマホ写真部にも2人追加される、ということか。持ちつ持たれつつ、ね」

 川島が妙に納得したようにそう呟いた。 

 つまり、文芸部に僕、里津花、今村の3人が入る。スマホ写真部には里津花、川島が入部する。するとそれぞれの部で部員が4以上は確保されるということになる。

 この状況において、なかなか打開策といえるかもしれない。

 とはいえ、つまり僕は部活を2つも掛け持ちしてしまうということになってしまう。

 1つの部に入るだけでもうっとうしいと思っていたのに、いつの間にかそれが2つに増えてしまっている。いったいどうしてこうなったんだろう。

 僕はリーズナブルな値段で食事を提供してくれるファミレスの中心で、密かに途方にくれていた。

「いい考えだと思うんだよね~。我ながら名案」

 里津花は嬉しそうにそういった。

 なるほど。たしかに昔から彼女はグループでの立ち振る舞いに定評があった。

 自分の所属しているグループはあるものの、どのグループの輪にもすんなり入っていける。それでいて自分のグループからは反感を買わない。男子の輪にすんなり入っていけるのに、女子からは跳ねっ返りを受けない。

 僕は彼女のそういうところが見ていて感心したり、あるいはときどき怖くなったりする。

「しかし、それぞれの部にみんな入るとしてだ。そうなると大元はどこになるんだ?」

 今村が意を唱えるように疑問を投げかけた。

「そういうのは、後から決めればいいでしょ」

 と里津花が返すと、珍しく今村が反論せずに押し黙った。

 あるいは静かに納得したのかもしれない。

「『連合』みたいなもんだね。何かと戦うわけじゃないけど、さしずめ我々は『連合部』といったところさ」

 川島が自分でそう言って、自分で納得した。

 連合なんて、また大きな言葉を使ったものだ。

 僕は自分の置かれた状況に身体がついていかず、おまけにまずいパスタを食べてしまい、どこか気分を変えたかった。

「ねぇ、場所を変えようよ。なにか甘いものでも食べにいかない?」

僕はとりあえずそう発言した。いつまでも黙ったままでは、どんどんみんなのペースに流されてしまうと思ったからだ。

「そうだね。じゃあ、クレープでも食べに行こ」

「一応、ここでも注文できるぜ?」

「ここのは高いし、生地も硬いし、美味しくないよ。あたしいいところ知ってるんだ」

 次の目的地が決まると、僕らはそれぞれ財布からお金を出した。なぜかそのお金は僕のところに集まり、自然と僕がレジへみんなの分の支払いをすることになった。

 レシートを見ると、僕が注文したはずのカルボナーラより、間違えて出されたペペロンチーノのほうが50円ほど安く、なんとも言えない気持ちになりながら、僕はみんなが待っている入口へ向かった。

 僕と今村は自転車で中央駅まで来たのだが、川島と里津花は徒歩でやってきたようだった。

 里津花の言うクレープ屋まではそこまで距離が遠いわけではなかったが、そこまで行くためのバスが今から1時間後という、なんとも理不尽なタイミングであった。

 自転車で向かった方が早いという結論になり、法律違反とはいえ、目立たない裏道を通りながら僕らはにけつでクレープ屋に向かうことにした。

 さて、そのにけつだが、里津花はまっさきに僕の自転車の後ろに乗り込んだ。

「野上くん、いこっか」

 と無邪気な笑顔で僕の自転車の後ろにまたがり、ゴーゴー!とはしゃいでいる。

 当然、残ったのは今村と川島という、相性最悪な二人であって、僕は罪悪感を覚えずにはいられなかった。けれども僕は、まぁいいかという気持ちにすぐに切り替えることができ、残った男二人に「先に行っている」と告げて走り出すことにした。

 背後からのおぞましい負の気配を如実に感じてはいたが、里津花と二人で乗る自転車の幸福感には太刀打ちできなかった。

「野上くんがまたわたしの恋人になってくれたらいいな」

 背後から里津花の声が聞こえた。

 幸い、美味しいクレープ屋までは坂道はほとんどなく、平坦な道を自転車で走ることができた。

 暑さがやや見え隠れする季節ということもあって、ほどよい気候の涼しい風を感じた。

「え、え?もう一度言ってくれないかな」

 僕は里津花が今言った言葉をもう一度聞きたくてそう聞き返した。

 ここからでは里津花がどんな表情か見ることができない。

 一つ一つの言葉を、確実に知る必要があった。

「野上くん、もう一度わたしを好きになってよ」

 里津花の声は、車のすれ違う音に混じってそう僕に届いた。

 僕はなにか言葉を返した方がいいと思ったが、車の群れが何台も僕らのそばを通り、僕に言葉を発する機会を奪った。

 その決定的な言葉に、僕はとても嬉しく思った。

 里津花と僕は、また両思いになれたのだ。

 そうだ。

 僕は彼女と、また付き合うことができるのだ。

 僕は、彼女になんと返事をするべきだろうか。

 これからもよろしく。いや、なんか変だ。これじゃまるで他人行儀じゃないか。

 僕も同じことを思っていたよ。うーん、これは悪くないけど、なんだか後出しジャンケンのようで卑怯な気がする。これじゃあまるで誰もいいから付き合いたい奴みたいで、軽く見られそうだ。

 なら、どんな言葉で返すべきだろうか。

 僕がそうやって思考を巡らしているうちに、残念ながら目的のクレープ屋が見えてきてしまった。

「あ、あそこだよ!バス待つより、やっぱ自転車で行って正解だったね」

 里津花が僕のシャツを握る力がやや強くなった気がした。

 彼女もホントは降りたくないのだろうか、と勝手に想像してみる。

 僕だってこのままクレープ屋と中央駅をループしたい。

 けれども、そろそろこの世の憎悪を一心に背負った二人組がやってくるため、このままイチャイチャしておくわけにはいかないだろう。

 そしてその二人はものすごい勢いで、僕らの後ろについてくるのであった。

 そのクレープ屋のクレープが美味しかったかどうかはよくわからなかったが、僕はなんとなくこの4人でいる空気が好きになった。

 険悪な二人組はいるものの、なんとなく、グループに所属している安心感のようなものを感じた。あまり人とつるむことのない僕がこういう感覚に陥っているのは、隣で笑っている幼なじみの存在のせいかもしれないし、あるいはなにか大事なことを考えないようにしているからなのかもしれない。

 今村は、我々連合部はこれから初の活動を始める、と言い出した。それはこの街の俯瞰の写真を撮ることであった。これは街に対しての敬意でもあるのだ、と自称連合部の部長である今村は言った。

 川島はあまり乗り気ではなかったが、里津花は、なら中央駅の観覧車に乗ろうよ、と提案した。

 そして今村はそれを採用した。

 誰がいちばん、いい写真を撮れるか競い合うことにしよう。いちばんいい写真を撮れた人は、ame caféのスタンプカードを進呈する。今村はそう言った。その景品を欲しがるものはもちろんだが誰もいなかった。

 かくして僕らはクレープ屋から来た道を戻り、駅の方へ向かうことにした。

 もうすぐ夕方になろうとしていた。

 

 観覧車乗り場につく前に、僕らはゲームセンターでそれぞれ思い思いにクレーンゲームや音ゲーをやり、一通り遊びつくしたころにはもうすっかり夕方と呼ぶにふさわしい時間帯になっていた。

 それもあってか、夕方の観覧車乗り場は夕日の寂しさからか、人の姿はあまりなく、誘導する係員もどこか気怠い表情で僕らを迎えた。

 そしてそれはあっという間のことであった。

 僕らが乗る4人乗りの観覧車がゆっくりと下がってきて、最初に今村が乗り、次に川島が乗り込んだ。

 そして次に僕が乗ろうとした時だった。

 ふと、手を引っ張られ、僕はその観覧車に乗り損ねてしまった。

 係員は、これ以上は危ないと判断し、4人が乗るはずだった観覧車に2人しか乗せていない状態で扉を閉めてしまった。当然、僕も今村も川島も唖然とした表情になった。

 そして僕の手を引いた人物は、なんと里津花であった。

 彼女はバツが悪そうに笑い、次にやってくる観覧車に僕の手を引いて導いた。

 係員は、危ないんでそういうことはやめてください、と注意をしたが、里津花は明るく、すいません~!と笑ってその場を流した。

 そうして、川島と今村に遅れて、僕らも観覧車に乗り込んだ。 

 僕らは、またしても二人きりになった。

 鉄骨に囲まれながらゆったりと上昇していく。

 地面からだんだん離れていき、人も建物も車も人口の木も、どこか作り物のような錯覚に陥ってしまうほどに小さくなっていく。

 空は茜色に染まり、雲をオレンジ色に塗りつぶしていた。

 僕と里津花は向かい合わせで座った。

 こうやって、本当の密室でふたりっきりになると、なんだか恥ずかしい気がした。

 里津花は笑っているのか、それとも無表情なのか、よくわからない顔で外の景色を見つめている。罰が悪そうにも見えるし、ふたりっきりになって嬉しそうにも見えるし、もしくはなにも考えていなさそうにも見える。

 観覧車はゆっくりと上昇を続けている。

 すぐ先に今村たちが乗っている観覧車があるようだが、ここからだとよく見えない。

 今日はあの二人にはわるいことをしたな。さすがにあとでフォローを入れておいたほうが良さそうだ。

 目の前に里津花がいて、なにか話さないととは思っているのだが、やはり言葉が出てこない。このままだとあっという間に地上に下りてしまう。

 それでもこのままの雰囲気もなかなか悪くなかった。

 景色は物憂げだが、どこか懐かしい。

 ここからは僕の家も、里津花の家も見えるはずだ。

「昔、一緒に乗ったことがあるよね。覚えてる?」

 里津花は視線を景色に向けたまま、そう言った。

 夕日のしつこい光に当たって、表情がよく伺えない。

「うん。覚えているよ。あの時、僕たちは恋人同士だったよね」

 僕と里津花は、小学校の頃に両思いになった。

 彼女がバレンタインデーの日に僕にチョコレートをくれて告白してきた。

 僕も彼女のことが好きだったので、それを受け入れた。

 僕らは恋人同士になった。

 もちろん小学生の時分であるため、今よりなにも考えないでいたし、恋人同士というものがどういうものなのかも今よりずっと無知であった。

 単なるごっこ遊びの延長だったとも言える。 

 それでも僕らは自分たちの気持ちが通じ合っていると思っていた。

 そして僕たちは、小学生2年生ではあったが、一度だけデートをした。

 当時できたばかりのこの観覧車に僕らは乗ったのだ。当時の係員のおじさんが、僕らを気に入ってくれて特別に子供同士だけで乗せてくれた。今よりもコンプライアンスにうるさくない時代ということもあったのだろう。

 そして僕らは観覧車に乗ったのだった。

「結局、別れちゃったけどね」

 僕はそう呟いた。当時が懐かしく思い、あの頃に戻りたい気持ちになった。

「うん」

 里津花は、小さくそう頷いた。彼女のそのどんな感情にも表し難い言葉は小さく観覧車内に響いた。

 車内は止まっているような錯覚に陥るまでに上昇していた。

「野上くん」

 里津花は気づけば僕の方を向いていた。

 いつもそうだった。

 彼女は気づけば僕の方を向いており、僕はいつも遅れて視線を合わせる。

「また、付き合えないかな。わたしたち」

 里津花は身を乗り出し、そして僕の隣に座り込んだ。

 僕らの乗った車内が、一方へ傾くのがわかった。

 彼女のとても大胆な行動に、僕は戸惑ってしまう。

「わたし、ずっとずっと好きだったんだよ。野上くんのこと」

 里津花の顔がすぐ近くにあった。

 柔らかい前髪が額を撫で、薄く化粧をしたであろうその頬は夕日に反射して赤く色づいている。触れたら壊れてしまいそうなくらいに、儚く、純粋な質感を見る者に与える。

 僕はその圧倒的なまでの可愛さに見とれてしまい、言葉が出なかった。

 ただただ、驚いていた。

 早くなにか言わないと。なにか言わないと。

 僕はどうしたい?

 里津花とまた付き合いたいはずだ。

 だったらそう言うべきだろう。

 彼女の想いに答えてやるべきだろう。

 すると彼女はどこまでも無邪気に、そしてまぶしいくらいに可愛い表情を僕に見せてくれるだろう。

 そうだ。僕はたしか彼女と付き合ってもいいと思ったんだ。

 彼女と付き合おうと思ったんだ。

 けれどもどうして僕は言葉が出てこないんだろう。

 どうして答えをためらっているのだろう。

 僕の中で何かが引っかかっている。

 僕は答えを出すべきでない。

 僕の中の何かがそう言っている。

「なにか言ってよ」

 里津花の迫る想いが伝わってきた。

 僕はおもわず視線を逸らしてしまう。

 答えを出すべきではない。

 そして、その正体がようやくわかった。

 僕の視線は、とある場所を捉えた。 

 観覧車の上空から微かに見えるそれは、僕の家の近くの公園だった。

 その公園は、紛れもなく『あの公園』だった。

 大きな木があり、頭上の枝に白い傘が引っかかっている。

 いつまでもその傘は取り除かれることなく、孤独に持ち主を待つわけでもなく、開かれることもなく、ただただそこに吊るし上げられている。

 その『公園』には、いつもひとりの少女が『殺される』のを待っている。

 僕に『殺される』のを待っているのだ。

 そう、ちょうどこの時間に。夕日が沈み、夜にとってかわろうとするこの時間に。

 不器用で、何考えているかわかんなくて、そのくせにすぐに行動に移してしまう、エキセントリックな美しい少女。

 失われた僕の記憶を唯一知るその少女は、今日もあの『公園』に来るのだろうか。

 そうだ。

 僕は失われた火曜日を取り戻すまでは、誰かと特定の関係になることはできない。

 例え今の僕には何の思い当たる節がなかったとしても。

 僕は、僕がとった行動を最後まで追うべきなのだ。

 だから。

「ごめん」

 僕は里津花にそう告げた。

 今は、まだ君の気持ちに答えられない。 

 本当はそう言うべきなのだ。

 でも僕は、やはりその言葉が出てこない。

 僕がいつも言葉が出てこないのは、きっと言葉で傷つくことが多かったからなのかもしれない。

 僕はきっと、いままで言葉に傷ついてきたのだ。

 たぶんそれは、『女性』に対してなのかもしれない。

 あるときは母親に。

 あるときは目の前の彼女に。

 あるときは中学のころの女の子に。

 そしてあるときは、高校に入学した当初に出会った女の子に。

 僕は、彼女たちの言葉や行動に傷ついてきた。

 だからかもしれない。

 僕はいつもいつも、彼女たちになにも言えない。

 何一つ、決断できない。

「どうして?どうして付き合ってくれないの」

 里津花は今にも泣きそうな顔になっている。

「ねぇ、どうして。どうしてなの」

 けれども僕は答えられない。

 なにも言えない。

 僕は、傷つくのが怖い。

 自分が怖い。 

 自分の記憶が怖い。

「他に、気になる人でもいるの?」

 気になる人か。

 たしかにそうかもしれない。

 気になる人。

 米盛旬果。

 もし彼女に出会うことがなければ、僕はきっとこの日、この時間、この場所で、里津花と付き合うことになったのかもしれない。

 なにも考えず、彼女の好意を受け入れていたのかもしれない。

 そして、また傷ついたのかもしれない。

 幸福感の代償として、傷つくことになったのかもしれない。

 あるいは小学校のころのように、また彼女を傷つけて、そして傷ついたのかもしれない。

 けれども米盛旬果が僕の前に現れた。

 彼女は僕の記憶を奪っていった。

 彼女は僕の時間を奪っていった。

 彼女は僕の心を奪っていったのだ。

「うん。気になる人がいるんだ。だから、里津花とは付き合えない。ごめん」

 僕はそう言った。

 幼いころとはいえ、とても大好きだった女の子にそう言うのは胸が苦しかった。

 たしかに里津花には、傷つけられた過去がある。

 僕は、かつて好きだった彼女にひどく傷つけられたことがある。

 それでも、もう一度好きになってみたかった。

 もう一度、彼女と付き合いたかった。

 けれども僕にそれを言わせたのは、米盛だった。

 その言葉を、その力をくれたのは、間違いなく米盛旬果だった。

 彼女は、僕に決定的なものを奪った。けれども同時に、これ以上僕が傷つかないための抑止力もくれた。

 だから僕はそう言えたのかもしれない。

 それを成長と呼ぶには懐疑的ではあったが、これでよかったのかもしれないと思うくらいには、僕は注意して生きることを覚えたといえる。

この観覧車での一周は、ある意味僕を『一回り』大人にしたのかもしれない。

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